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鎌倉殿の13人 (24)「変わらぬ人」

(2022日)


建久4年(1193)5月から約1か月間行われた富士の巻狩りから頼朝は鎌倉に戻った。
善意からとはいえ範頼が鎌倉殿になろうとしたことが野心と捉えられた。
朝廷への使者から範頼を鎌倉殿にする文書を梶原景時が押さえてもいた。
範頼は自分を嗾けた比企能員邸へ行き弁明してもらおうとするが、保身による仮病で会えなかった。
範頼は起請文を書き潔白を主張。が、署名に源範頼としたため、
鎌倉殿と跡継ぎにしか認められていない源を名乗ったことを野心の現れと看做された。


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孫娘を範頼に嫁がせた比企尼が来た。
庇うのかと思いきや、見せしめに目玉をくり抜き、顔に焼印を付けるよう主張。
比企尼が持たせた観音様を頼朝が捨てたことに腹を立てビンタ。

頼朝は、比企尼の顔を立て命を取らず範頼を
伊豆の修善寺に幽閉することにした。


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岡崎義実は出家となる。


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泰時は『貞観政要』を写していた。
三浦義村は隠居すると義時に語ったが、もう少し付き合ってくれと止めた。


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頼朝の甥で京都守護だった一条高能との縁談を大姫は流した。


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木曾義高の霊を呼び出して忘れさせる演技だったが、
大姫には通じなかった。


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大姫は和田義盛に嫁いだ巴御前から話を聞く。


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建久6年(1195)頼朝、2度目の上洛だった。
関白九条兼実は頼朝に協力していたが、
中納言土御門通親は嫌っており宗の職人陳和卿は会いたくないと断る。


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土御門通親は喜んで頼朝からの贈り物を受け取る。


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が、政子と大姫が丹後局に会っても容赦無く田舎者扱いされた。
既に、土御門通親と九条兼実の娘が後鳥羽天皇の子を宿しており、
仮に入内となっても険しい展開が予想された。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



建久8年(1197)7月、大姫は20にて死去。
呪詛が原因であり、犯人は1人だと頼朝は梶原景時を呼ぶ。
善児が修善寺に向かった。
民間人殺害も平気だった。






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