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青天を衝(つ)け (17)「篤太夫、涙の帰京」

(2021日)


元治元年(1864)6月、江戸に向かっていた。
道中、従弟の伝蔵が来て、惇忠と平九郎の件を伝えた。


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村を挙げて「名主を返さなければ牢を打ち壊す」と恫喝。
証拠が無い以上、惇忠の釈放、平九郎の枷も外されたとのことだった。


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(伊藤博文 井上馨)

その頃、長州では前年の外国船砲撃に対する4か国の報復直前となっていた。
後に栄一と親しくなる二人が交渉に出向いていたが、
連合艦隊の目的が、攘夷観念そのものを叩き潰すことにあった。


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栄一と喜作は、江戸城一橋邸に到着する。
慶喜や妻美賀、徳信院からの平岡邸への見舞品が置かれていた。
猪飼勝三郎から平岡の死を知る。


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7月19日、京、桂川を長州兵が渡ったと知らせがあり、
急遽、慶喜は参内。孝明天皇は「長州を撃て」と命を下した。

「これよりこの臣慶喜、御叡慮に従い長州を征伐いたします」


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禁裏御守衛総督徳川慶喜は謹んで拝命、急いで着替えた。


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会津が守っていた蛤御門を長州兵が狙ってきた。
来島又兵衛が侵入に成功するが、西郷吉之助が指揮する薩摩が加わる。
後に大警視となる川路利良が来島を狙撃するが、省略。


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幕軍の勝利ではあるものの慶喜の活躍でり、家茂としては面白くなかった。
天璋院や和宮に少々愚痴るが、フランスと組む決意を語る。


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円四郎の死を知った妻やすは、掛軸に隠された手紙を見つけることができた。


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中山道を通り京に向かうこととなった栄一たちだったが、
岡部藩代官の利根吉春に百姓だった2人の渋沢を出すよう求められる。
が、25両貸してくれた猪飼勝三郎が2人はかけがえのない家臣であるとし、一橋家として拒否する。
栄一は500両を納めた際の無念がようやく癒えた。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


藤田東湖の息子の小四郎が挙兵した天狗党の乱だったが、
武田耕雲斎は諫めるつもりだったが、共通の敵諸生党との戦いもあり、
懇願され総大将を引き受ける。共に死んでやろうということだったのでしょう。
京へ向かうことにした。





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