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花神 総集編 第5回 維新回天(最終回)

(1977日)

慶応3年(1867)9月19日、薩摩の大久保は長州に向かった。


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左端 第14代藩主毛利敬親(金田龍之介)「そうせい」が口ぐせだった。
対面 大久保


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10月、大政奉還を決意する徳川慶喜


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慶応4年(1868)1月4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍となり、
愛人に作らせた錦旗が使えることとなり勝利を確信する大久保一蔵。


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越後長岡藩は15万石の小藩だったが、5月3日、徹底抗戦を決意する。
同日、奥羽列藩同盟結成
河合継之助、ガドリング砲を採用したが、重くて移動が難しかった。


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明治2年(1869)5月11日、五稜郭にて、土方歳三 35歳。


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京都で刑法官の監察を行う弾正大忠となった海江田信義、
長州脱藩浪人と会合を持った。(神代直人、太田光太郎、団伸二郎)
上野戦争で、嫌味な大村に恨みを抱いた。


その頃、関東に軍事施設を作る案を退け、大阪に作ることを大村は主張。
東北諸藩が復活することは数十年心配ないが、薩摩のエネルギーが心配だった。

7月27日、大村は東京を発ち東海道は危険なので、
 桂の勧めで中山道で京に向かった。
8月13日、京都着。
     伏見練兵場で明治陸軍の原型となる調練方法を決める。
     宇治火薬製造所、大阪砲兵の陸軍施設、天保山に海軍基地を作った。

    後、西南戦争鎮定の根拠となり、太平洋戦争終結まで使われることとなった。

9月3日、京に戻り、三条木屋町の宿に泊まった。


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9月4日、海江田信義(薩摩)と飲んだ長州浪人ら8人、大村を襲う。
左、神代直人(現 川口雪篷)



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NHKオンデマンド 花神 総集編 第5回 維新回天(最終回)

シーボルトの娘イネは、娘の高子の夫から聞き、
横浜から8日で京に到着。


10月2日、大阪へ舟で運ばれた。担架を担いだ男の中に、
  後、日露戦争野戦参謀総長となった児玉源太郎と
    陸軍大臣となる寺内正毅がいた。

27日、午前8時、右大腿部切断。

11月5日、帰らぬ人となった。45歳。


長州の革命の系譜に3人がいて、
吉田松陰は思想家、高杉晋作は行動家、大村は技術者として活躍したそうだ。

維新が正義なら技術をもって枯れ木に花を咲かせたのが、大村益次郎だった。

中国では「花咲爺さん」のことを「花神」と言うそうだ。




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