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翔ぶが如く 第1部第9回 大老・井伊直弼

(1990日)安政4年(1857)10月に江戸九段下の蕃書調所にハリスが滞在し、
ここで交渉が行われた。


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(ハリス、岩瀬忠震 通事、川路聖謨 堀田正睦)
ハリスが12月4日に条約草案を提出し交渉が始まる。



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(井伊直弼、川路、橋本左内、堀田、松平忠固 松平春嶽)
江戸城内で対策会議が行われたようだ。
井伊は彦根藩主、左内は越前藩主松平春嶽の代理でしょう。
松平忠固は老中として堀田が復帰させた。



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西郷吉之助は京の清水寺成就院に月照を訪ねた。
公家へ長野主膳が紀伊の徳川慶福(家茂)を推している、と聞く。
長野は井伊直弼の懐刀で国学の先生だった。
また、儒学者梅田雲浜が条約勅許反対であるとも聞いた。


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月照の成就院を後にすると、長野主膳が堂々と吉之助に近づいてきた。
名を伏せていたが、知り合いの女に声をかけられ、バレる主膳。



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安政5年(1858)1月8日に老中首座の堀田が幕府使者として上洛。
副役に川路と岩瀬が同行することとなる。
吉之助と左内も京へ側面支援に行くこととなり、月照と会う。
朝廷の勅許反対を知り、次期将軍に一橋慶喜の内勅を図ることにした。



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堀田は江戸に4月20日に戻った。
条約の勅許は得れず、次期将軍に慶喜を示唆する内勅があったことを報告。
井伊直弼と長野主膳は謀議を錬った。

21日の堀田の家定への報告に対して、本寿院は息子家定に
次期将軍は紀伊の慶福が相応しい、さもなくば死ぬと脅した。



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翔ぶが如く 第1部第9回 大老・井伊直弼


そして、23日、井伊直弼の大老就任となった。
堀田は青天の霹靂だった。

家定が大老を井伊直弼に決めた働きかけが、この数日のものとも思えず、
堀田が京へ行っていた留守の間に、老中に復権した松平忠固と
紀伊新宮藩主の水野忠央が動いていたのでしょう。
忠央の姉お琴が家慶の側室であり、睦(なか)は家定の側室、はるも大奥に送り込んだようだ。
睦は草加与十郎の娘を水野の養女にして家定の側室としたようだ。
病弱の将軍にアクセスするために他人の娘を養女にして送り込むのが普通の時代だったのか、
権力欲に取り付かれた一部の悪人のマレな手段だったのか、いやらしい話です。

堀田の失敗後に、勅許を得ずして条約調印を岩瀬にやらせる責任者として、南紀派の代表として、
大老井伊直弼の合意形成が密にできあがっていたのやもしれません。





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