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翔ぶが如く 第1部第18回 公家攻略策

(1990日)

前回、文久2年(1862)4月23日の寺田屋事件の回だった。公家は久光を評価する。


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近衛忠煕は久光が京を離れることを危惧し、
久光は幕閣を上京させるよう伝え、近衛はご満悦だった。


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寺田屋事件後、薩摩の藩士たちは、仲間の死に沈んでいた。


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盗み聞きする旅館の女将


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薩摩の山川港の船で軟禁されていた吉之助に、弟の吉次郎と小兵衛がきた。
10日前に祖母が他界したこと、吉之助は徳之島、新八は喜界島との沙汰だった。
森山新蔵には無かった。


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(森山新五左衛門)

2階にいた薩摩や久留米、土佐藩士ら各藩士は帰藩することになるが、
重傷を負った田中謙助、森山新五左衛門は切腹となる。
6名が死に、2名が切腹、1名が帰藩に服さず切腹。9名が烈士とされる。
伏見区に薩藩九烈士遺蹟表という碑があるようだ。

また、引き取りてのない浪人を薩摩が預ると称して殺した。
これは残酷だった。明治天皇の教育係だった田中河内介もいた。

帰藩した21名の薩摩藩士の中には、西郷信吾、大山巌、伊集院兼寛や、
西南戦争を共にした篠原国幹、永山弥一郎らがいた。



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朝廷は幕閣の上洛を求めたが、幕府は引き延ばした。
そこで、中山尚之助と谷村愛之助が久光の江戸行きを提案する。
しかし、近衛や三条実愛は京の治安上反対した。


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大久保は岩倉具視を訪ねた。
先客が長州の重役で、禁裏守護のお役目と勅諚の斡旋を岩倉は頼まれたが、
大久保は、長州を禁裏守護にし、久光の江戸行きの話に進めた。


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翌日に、岩倉が薩摩藩邸にお忍びで訪れる。
岩倉は大久保を飲み込みが早く主人思いと褒めた。
久光は、「君命は命よりも重し、が薩摩の家風」と応え、岩倉は感服する。


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その頃、息子の切腹を知った森山新蔵は、元豪商ではあったが、武士らしくと切腹する。
(暑苦しい演出だった)


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「将軍上洛」「5大老の設置」「慶喜の将軍後見、春嶽の大老」
の「三事策」で久光は勅使大原重徳に随従し江戸へ行くことになる。

5月20日、小松帯刀は家老同様御用扱、大久保は小納戸役頭取と出世となる。
中山は国元の留守居、愛之助は中山を補佐し帰国となった。



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翔ぶが如く 第1部第18回 公家攻略策


5月22日、勅使が江戸へ向かった。
江戸時代全般において無力だった朝廷が、薩摩兵1000人の武力を率いて
幕府に威光を示す大事件だった。

久光を斉彬に比して無能呼ばわりするが、無能でできることではなかった。
都会に洗練されていない古いタイプの人間ではあったが、
この段階では確実に時代を進めていた。




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