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翔ぶが如く 第1部第19回 異人斬り~生麦事件

(1990日)

文久2年(1862)5月22日に京都を出発した島津久光と勅使大原重徳は、
6月7日に江戸に入った。


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6月10日、勅命を第14代将軍家茂に授けた。
左に控えているのが、西郷の親友の伊地知正治と吉井幸輔だった。
勅使大原の正面には、将軍家茂が畏まっていた。
老中の板倉勝静と水野忠精が同席する。


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その日、大久保も加わり食事をとりながら、
幕府から返事を受け取らなければ、帰らない覚悟を確認する。


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(島津久光、小松帯刀、大久保一蔵)

久光は無位無官なので登城できず江戸薩摩藩邸で待機していた。
兵を率いての勅使東下だが、久光に野心がないことを明らかにすること、
そして登城できるように家督の継承の許可を求める働きかけを大久保に求めた。


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三田・大円寺にて、天璋院篤姫の侍女幾島を大久保は訪ねた。
久光に「従四位下中将」の官位と家督の件で篤姫から将軍家へ働きかけてほしいと頼んだが、無位無官からいきなり大名クラスの官位であることと、
息子から父へ家督を継承させる粗暴なお願いに、幾島は激怒した。


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幾島から聞いた篤姫も、久光が無体な横車を押すようなら
幕府側の姿勢を取ると明言する。


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江戸に来て20日も経ち何もないので、有村俊斎が老中を斬る準備を始めた。
大久保は宥めようとした。
大山格之助が間にたち、寺田屋で同志を斬って江戸に来たことから、
手ぶらで江戸を去り薩摩の恥となることになったら大久保を斬るとしたことで、俊斎は納得した。


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が、俊斎は威圧行動に出ていた。


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瓦版にも書かれるようになった。
幕閣への恫喝にもなったので、俊斎の過激な行動に舌打ちしつつも、
その動きを利用して勅使から一気に圧力をかけることにした。


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6月26日、勅使は宿泊する伝奏屋敷に老中を呼び出した。
大原は、「返事の期日を切れ」と迫ったが、
水野と板倉は一存では決めれないと引き延ばした。
大野は、「勅命を奉ぜざれば・・・」と声を荒げると、
背後から、吉井と伊地知が刀を抜き、老中を脅した。

板倉は「謹んでお受けいたします」と屈した。

実際は、『大久保利通日記』では水野ではなく脇坂安宅と板倉だったようだ。


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徳之島へ会いに来た愛加那。臨月段階で吉之助の近況を知り徳之島と聞き半分喜んだ。
7月2日(5日?)に菊草が誕生した日に、吉之助は徳之島に到着。
愛加那はすぐにでも会いたかったが、吉之助は手紙で反対。
が、8月25日早朝、漁船に乗って大島を離れた。
27日正午過ぎに到着する。
が、その日の晩、中原万二郎が沖永良部島へ変更されたことを伝えにきた。
大島の藩庁の者が久光に報告し激怒。妻子と引き離すためだったようだ。


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8月21日、京に向かった久光の行列の前にイギリス人が横切った。
籠の中の久光は「斬れ」と命令。即座に2人が走り出した。
リチャードソンに最初に切りつけたのが奈良原喜左衛門、
介錯したのが有村俊斎だった。大久保が後始末をすることとなる。


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幕閣は怒り、「薩摩討つべし」との声もあったが、
1000人の薩摩兵を相手にしたい藩はなかった。


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翔ぶが如く 第1部第19回 異人斬り~生麦事件


京に戻った薩摩の者たちだったが、情勢は変化し、長州が幅を利かせていた。
岩倉も和宮降嫁で功績があったことから攘夷派から狙われ、
岩倉村へ転居していた。

久光は一旦薩摩へ帰ることにし、大久保は岩倉宅へ挨拶。
岩倉はフテ腐れ、大久保が「薩摩が護衛する」の申し出にも、
「かえって薩摩と繋がってることの証拠となり、いらん」と拒否。

粗雑な対応に大久保は岩倉にビンタする。
武家にビンタされ、さすがに岩倉も仕返した。

厳しい身分社会ではあり得ない大事件のはずだった。




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