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翔ぶが如く 第1部第20回 薩英戦争前夜

(1990日)

文久2年(1862)、生麦事件の後、京に入った薩摩の一行は、
朝廷を長州が占拠するのに舌打ちする。
閏8月23日、久光らは薩摩に帰ることにした。


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9月頃、大久保は、西郷邸を訪ねた。
謹慎中の信吾は、下僕に「知らん人間に茶なぞ出すな」と言った。
寺田屋事件で相反する立場となり、大久保は久光の信頼を得るようになった。


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久光は、長州が攘夷の決行を幕府にせまろうとしていると知り、
一蔵を御用取次見習とし、「京へ行き、近衛公に将軍上洛反対を説け」と命じた。


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(三条実美 姉小路公知)

攘夷督促の勅書を江戸城の第14代将軍徳川家茂に渡した。
「勅書への返事に、早々に上洛するように」
と命じた。


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12月9日、薩摩を発ち京に向かった大久保は、関白の近衛忠煕を訪ねた。
慶喜が後見で春嶽が政事総裁職なのに、
将軍上洛はおかしな要求だと説明。朝議を開いて阻止してほしいと頼んだ。

が、朝議は久光ら薩摩が帰った後、長州や土佐の連中と連携する若い公家で勝手に朝議が進められる事態へと悪化していた。


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(岩倉邸)

長州が京で幅をきかし、逆らえば天誅になると、岩倉具視が愚痴る。


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(西郷吉之助、土持政照、川口雪篷)

沖永良部島で牢に入ることになった。
が、久光の命令書に「囲」に入れろとは書いていたが、「牢」ではなかったので、
環境の良い小屋の方に移動させようと、土持と雪篷が勧めた。
が、吉之助は意地になって「天命に従う」と土持の案を小細工だと拒否した。
しかし、雪篷が「天命に従う」ことは藩命に従うことではない、
生麦事件の後の始末で吉之助の役割もでてくる、それが天命だと、トクトクと厳しく叱った。
吉之助は恥じ入り、新しい「囲」に入れて欲しいと頭を下げた。


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久光上京の際、大久保は留守居とする。
藩主のお側役小納戸頭取兼務となり、最高幹部となった。
戦の準備のためだった。34歳 


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(三条実美、近衛忠煕、姉小路公知)

将軍上洛にあたり先立って、一橋慶喜と板倉勝静が折衝に訪れた。
慶喜は、攘夷の日を5月10日を承知するも、討ち死にすると堂々と述べた。


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5月10日、長州藩は馬関海峡を通る外国船を砲撃した。
アメリカ・オランダ・フランスの艦船だった。


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生麦事件の報復に英軍艦隊が6月28日、鹿児島湾に入った。
29日、有村俊斎や大山格之助、西郷信吾、大山巌らは、
スイカ売りに化けて船を乗っ取ろうとした。乗船に成功はした。


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翔ぶが如く 第1部第20回 薩英戦争前夜


(島津久光 藩主島津忠義  小松帯刀 
  大久保一蔵、伊地知正治)

生麦事件の解決に2万5000ポンドと犯人を差し出せとの要求に、薩摩は拒否。
7月1日、交渉は決裂した。

西郷の親友の伊地知正治も加わっていた。
片目片足が不自由だったが、軍略家として大きな功績を残したようだ。
安政6年(1859)正月2日、安政の大獄の時代、月照と入水後に大島へ向かう吉之助を
港まで見送っている大久保のシーンはフィクションで、実は伊地知だった。
大久保の手紙を預かって吉之助へ渡している。
誠忠組を継いだ大久保はキレ者だったが、親友は伊地知正治や吉井友実だったのでしょう。


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