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英雄たちの選択 「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」 [歴史動画]

(2019日)

蛍大名と言われた京極高次の妻がお初で、浅井三姉妹の次女。
淀殿が秀頼の母、お江が秀忠の妻、妹の竜子が秀吉の側室となっている名門だった。

慶長5年(1600)8月21時点で立花宗茂が美濃大垣にいたが、
滋賀大津で京極高次が寝返り、宗茂は大津に向かった。

西軍が分断され、大津に宗茂や西軍総大将毛利輝元の叔父が大津城を攻める。
9月15日の関ケ原の戦いに宗茂らは間に合わなかった。

1日で戦が終わるとは誰も予測できなかったが、
足止めした京極高次を家康は評価した。
三成に人質を送って信じさせて、寝返って井伊直政に伝えたことを家康は忘れなかった。

一方、宗茂は、敗軍となり、柳川城へ戻り、加藤清正の勧告を受け入れ、
牢人となるものの、旧領復帰となった。
彼のみが、戦死者名簿を作ったり信義の人だったことによるようだ。

現在の旅館を取材した番組を以前見たことはあったが、
今回、子孫である女将さんの父から伝えられた言葉、
「周りの人たちの幸せから」には胸が熱くなりました。
「自分の幸せが先」という考え方が日本に根付いている中で、
戦国大名の血筋から、この言葉が出たことに驚きでした。


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英雄たちの選択 「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」

----memo

1567 高橋紹運
  養父 道雪

主 大友宗麟

島津 南から  秀吉の配下へ

紹運700籠城 自刃

宗茂 降伏勧告拒否 
秀吉の九州征伐を予測
宗茂の逆襲
岩屋城奪還
10万石へ 戦国大名立花宗茂へ

朝鮮出兵で武功
秀吉の死

家康か三成か

三成から手紙 宗重は親三成
1300の要請だが4000で出兵

821 美濃大垣
京極高次裏切り 滋賀県大津へ0907
京極は恐れて守りに徹した
大筒での攻撃 日本初 1㎞ 915陥落

同日 関ケ原 開始

915は 立花のいない間に
小早川ストッパー

17 大津城を出陣 西へ

島津義弘と起請文 前年 
 秀吉の九州平定後は島津と親密に

大阪城へ 輝元は決断できず
呆れかえる

籠城できず 九州へ帰還

10月柳川城帰還 東軍に包囲される
 加藤清正 降伏勧告 明け渡し 

改易 一介の浪人となった 家臣は清正配下へ
20人はついていった

家康に働きかける
1606 陸奥に3万石を与えられた
 大坂の陣で 秀忠のおはなし衆へ
1620年 旧領復帰 彼のみ

1643 76で死去

旅館 周りの人たちの幸せから 父
徳川にもメリット 戦なき時代の

情報公開情報共有
戦死者名簿を作っていた 稀有

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