徳川慶喜 第25回 将軍後見職
(1998日)
文久2年(1862)5月、勅使が江戸へ下向することが決まった。
(松平春嶽)
老中板倉勝静は、越前福井前藩主の松平春嶽に幕政参与を申し出た。
勅使に言われて飲まされるのではなく、自ら先に決める必要があった。
春嶽は引き受けたが、一橋慶喜を将軍後見職にと推した。
が、将軍家茂は17歳になったので、その必要はないとしたが、
春嶽がしつこかったので、持ち帰ることにした。
(和宮付女官 重子 , 上臈 高部)
(御年寄 瀧山)
瀧山は、和宮が御台所として振舞ってほしいと重子に言ったが、
重子は、事前の約束とは違い文書もあるはずだとした。
が、瀧山も重子も譲らなかった。
老中会議で、一橋慶喜を養子として水戸藩に戻し、
幕政から遠ざけようという意見が出された。
6月、勅使の大原が来た。将軍の前まで来て、
慶喜の将軍後見職、春嶽の大老、攘夷を10年以内に実現を命じた。
(板倉勝静 脇坂安宅)
老中2人が大原を訪ね、のらりくらりと勅使の要求をかわそうとした。
が、大原は、薩摩藩の大久保一蔵に授けられた老中を切り殺す合図を言おうとした。
その瞬間、察知した板倉は一橋慶喜の将軍後見職を承知する。
徳川慶喜 第25回 将軍後見職
その後、板倉が慶喜を説得し、慶喜は家茂に謁見。
将軍後見職となる。
文久2年(1862)5月、勅使が江戸へ下向することが決まった。
(松平春嶽)
老中板倉勝静は、越前福井前藩主の松平春嶽に幕政参与を申し出た。
勅使に言われて飲まされるのではなく、自ら先に決める必要があった。
春嶽は引き受けたが、一橋慶喜を将軍後見職にと推した。
が、将軍家茂は17歳になったので、その必要はないとしたが、
春嶽がしつこかったので、持ち帰ることにした。
(和宮付女官 重子 , 上臈 高部)
(御年寄 瀧山)
瀧山は、和宮が御台所として振舞ってほしいと重子に言ったが、
重子は、事前の約束とは違い文書もあるはずだとした。
が、瀧山も重子も譲らなかった。
老中会議で、一橋慶喜を養子として水戸藩に戻し、
幕政から遠ざけようという意見が出された。
6月、勅使の大原が来た。将軍の前まで来て、
慶喜の将軍後見職、春嶽の大老、攘夷を10年以内に実現を命じた。
(板倉勝静 脇坂安宅)
老中2人が大原を訪ね、のらりくらりと勅使の要求をかわそうとした。
が、大原は、薩摩藩の大久保一蔵に授けられた老中を切り殺す合図を言おうとした。
その瞬間、察知した板倉は一橋慶喜の将軍後見職を承知する。
徳川慶喜 第25回 将軍後見職
その後、板倉が慶喜を説得し、慶喜は家茂に謁見。
将軍後見職となる。
2019-12-03 23:49
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