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鎌倉殿の13人 (2)「佐殿の腹」

(2022日)


安元元年(1175) 、宋との貿易が行われていた大輪田泊は賑わっていた。


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(平清盛 平宗盛)

宗盛は頼朝の件を報告するも、つまらないことを聞かせるなとした。
現段階では些事だった。
清盛の継母池禅尼の頼みで頼朝の命を助けたことも忘れていた。


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(伊東祐親 大庭景親 北条時政)

清盛を後ろ盾とする相模の大物の大庭が間に入ってきて、
頼朝を北条が預かることに双方承知する。


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(三浦義村 北条義時)

義時は、義村が大庭に話したことを問うたが、
義村はそのおかげで丸く収まったとし感謝を求める。

2人は祖父を伊東祐親とする従兄弟ではあったが、
共に桓武平氏の流れだった。


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(安達盛長 頼朝 政子)

食事に注文をつける頼朝だった。
この盛長の子景盛が承久の乱の際、政子の言葉を代読した。


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兄北条宗時の計らいで八重の再婚前に武蔵で会わせることとなる。
義時は伊豆権守・堤信遠とすれ違う。
この時、跪けとの要求を義時は断った。


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堤は強制力を働かせた。
義時の殺したいリストの第1号となったようだ。


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その頃、頼朝は政子を近くの神社に誘った。
平治の乱で父や兄弟が死ぬも自分が生き残ったことを運が良かったとした。
八重のような目に合わせたくないと語る。


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(道 比企尼 比企能員)

比企宅に着いたが、頼朝を連れてこれなかったことを詫びた。
この流人時代の頼朝を支えた比企家の存在は大きかった。


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政子は八重に会いに行った。
断ち切らせるためだった。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


義時は頼朝に北条家から去るように求めたが、
頼朝は12歳の少年の姉や八重のことを考えての言葉と受け止めた。
そして、挙兵し清盛を討ち後白河院を支えるという大望を語り、
その為に政子との縁組が必要だとした。
兄宗時にも秘すこととし、自分の弟であるとした。
義時は服した。





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