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青天を衝(つ)け (36)「栄一と千代」

(2021日)


明治13年(1880年)8月、岩崎弥太郎は渋沢栄一と組もうと誘ったが、
合本を否定する弥太郎を残して栄一は立ち去った。


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海運を独占する三菱は高い運賃を設定し値引きに応じなかった。
そこで三井物産の益田孝が第一銀行頭取の栄一に相談。
東京風帆船会社を設立することとなる。


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が、岩崎の政治と新聞を使った猛反撃に風帆船會社は事業開始前に萎んでしまった。


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千代や歌子は東京養育院にしばしば足を運んだ。


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東京会議所で運営していた東京養育院だったが、府庁直轄となり
明治12年に地方議会が開設され数年後、養育院廃止問題が起こることとなる。
廃止論者は府会議長の沼間守一、議員益田克徳らだった。


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歌子は後に東大法学部長となる穂積陳重と出会う。
この時点では約束されている訳ではないので、栄一の眼力なのでしょう。


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10月、伊藤は根回しを済ませ、東北北海道巡行から帰った明治天皇に上奏し、
大隈には、臨時御前会議が終わったと辞表を求めた。

元々、大隈は3つ伊藤の上で大蔵省で上司だった。共に木戸派だった。
明治11年の大久保亡き後、工部卿だった伊藤が内務卿となる。
太政大臣の三条と右大臣の岩倉の2人が拒否権を有しているが、事実上のトップとなってはいた。

大隈は三菱と通じており、薩摩の黒田が官有物を五代の関西貿易社に払い下げようとして、
北海道での権益を脅かそうとしていたので、大隈は黒田の案を拒否した。
7月26日から約2か月、新聞は黒田五代批判をした。福澤系の新聞で大隈擁護の論調だったようだ。
当時、三菱から加藤高明、福沢の塾からも応援が現地に向かう。

ここに憲法制定の路線が絡む。
3月に大隈は単独で左大臣の有栖川宮を通じてイギリス型の憲法案を上奏し、
天皇のご聖断により2年で国会開設し総理となることを企んだ。
が、6月に伊藤は三条より知ることとなる。面白いはずはなくキレた。
温泉まで誘って仲良くやっていこうとしたのに出し抜こうとされた。

ここに、福沢大隈の憲法路線と、岩倉伊藤と井上毅のプロシア型の路線の対立があった。
誰が書かせたのか、薩摩の黒田五代を批判に晒して大隈福澤系を排除する。
が、井上毅の野望とするのは考えすぎなのやもしれません。


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明治15年3月となり、大隈は立憲改進党を設立。三菱の支援だった。
栄一たちは三菱に対抗することにした。
政府の全面バックアップで、社長には海軍少将がなった。


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千代は健康のため、牛乳を飲むことにした。


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が、倒れてしまう。
栄一は共同運輸会社発起人大会には出席しなかった。


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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


明治15年7月、コレラにより死去。
子どもたちは自宅にいながら看取ることができなかった。





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