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青天を衝(つ)け (37)「栄一、あがく」

(2021日)


明治15年(1882) 7月、千代が他界。


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同月、共同運輸会社が発足した。
有事の際の軍事利用の条件で政府出資となり伊藤雋吉海軍少将が社長となる。


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苛烈な競争となる。
新聞講談では、共同運輸と三菱との戦いをネタにし、反三菱反大隈感情が沸き立った。


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翌16年、栄一は伊藤兼子と再婚する。
歌子に重遠が誕生。
が、10歳で母を亡くした篤二にとって全てを飲み込んで懐ける段階ではなかった。


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7月、岩倉具視が死去。
壮絶な忠君愛国精神を発露した臨終だったが、
娘寛子は英語国語化を唱えた森有礼と再婚。後にキリスト教徒となる。
森有礼は一橋大学の前身となる商法講習所を開設し栄一も後に寄与する。
井上馨がどこにでも顔を出しているのに恐れ慄く。


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岩崎が栄一の合本を逆手に共同運輸株を既に過半数取得し、五代が調停に乗り込んだこともあったが、栄一は刺し違えてでも勝負すると宣言し、栄一の合本と岩崎の独裁との理念での争いが続いていた。
運賃の値下げ、サービス向上、従業員の待遇改善とリストラと消耗戦の中、
その岩崎弥太郎も明治18年(1885)他界。


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弟の弥之助が2代目総帥となり、合併して日本郵船となる。


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仲介した五代も病となり、自分が死んでも自分が作った物は残る。
もっと商が変わっていくところを見てみたかった。
そして栄一に日本を頼むと遺言を残し9月に他界。


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兼子は再婚して2年たったが、栄一が千代に憑りつかれていたので離婚の許しを請うた。
が、栄一は自分が悪かったと頭を下げる。


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12月、内閣制度となる。従来も内閣という言葉は使われていたが、
参議と各省のトップが分離していた。
初代内閣総理大臣が伊藤博文で明治天皇の伊藤への信頼は厚かった。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


明治22年の大日本帝国憲法公布時は黒田、23年施行時は山縣だった。
その頃、渋沢家には兼子に2人目の男の子が誕生していた。





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