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英雄たちの選択 幕末秘録・京都に外国軍侵攻!? 徳川慶喜 破滅回避への決断 [歴史動画]

(2016日)1858年に日米修好通商条約を結んだ。下りるはずの勅許が岩倉具視の陰謀により絶望となったまま、時間が経った。

慶喜は若くして大老井伊直弼に逆らい1860年に3年の謹慎を命じられ、
1863年に活動を開始した。

慶喜は徳川家の将軍の血よりも天皇の血が女系で玄孫だったこともあり、
朝廷に重きを置いていたが、あくまで幕府の立場がベースだったようだ。

条約は1858年に結ばれたが、慶喜は64年に攘夷の約束を朝廷と結ぶ。
横浜港が閉鎖となったようだ。

そういう事情もあり、1866年10月、英米仏蘭の4カ国で9隻の黒船が大阪湾に来て、
英公使パークスが「3日以内に勅許、さもなくば自由行動させてもらう」と恫喝した。

それに対して、慶喜が考えられない奇策にでた。
今回はこれがメイン。

1868年の鳥羽伏見の汚名で語られることが多いが、この66年の奇策で、「勅許」を得ることができた。
大阪京都が焼かれずに済んだこともあるが、攘夷路線の過激な幕府が延命し日本そのものの悲惨な結末が避けられたとも考えられる。
最後の将軍ということで、偏見でみられがちだが、彼の功績も立派であると確認できました。


eたち幕末秘録 京都に外国軍侵攻 徳川慶喜の決断20... 投稿者 okura1919ppp
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