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徳川慶喜 第3回 黒船が来た

(1998日)

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嘉永5年(1852)水戸藩駒込中屋敷にて、藩主慶篤は、父が結城を退け藤田東湖など天狗派を引き上げたことに怒りをぶつけた。
斉昭は「よかろう様」と言われぬように注意した。


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嘉永6年(1853)6月3日浦賀午後5時。4隻の艦隊は停泊。


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その日の晩、慶喜は就寝中だったが、家老の土岐朝義が来訪。
黒船の件と、老中から「火事装束」と指令してきたとの知らせだった。
斉昭からは「甲冑」でと老中の指令を知った上で指示してきた。


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(松平乗全、松平忠優、久世広周、牧野忠雄)

筆頭老中の阿部正弘は対策会議を開いた。
ペリーは国書受け取りを要求してきた。返事の期限は3日後の7日。
明日の5日までにご意見をお聞かせ願いたいと言った。

 第一に、戦を避けたい、250年していず、武器も歯が立たない。
 第二に、国書と条約は別で時を稼ぐ必要がある

と、阿部は自分の見解も述べた。


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(吉田寅次郎、佐久間象山、中根長十郎、中山五郎左衛門)

中根は、慶喜から「見てこい」と命じられ黒船を描いていた。
59歳だったが慶喜は容赦しなかった。
絵には砲門が欠けており象山が指摘する。
藤岡琢也演ずる中山は架空の下級武士。


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老中首座阿部正弘は国書受取を決断する。


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徳川慶喜 第3回 黒船が来た


その頃、第12代将軍徳川家慶は病で伏せており、
とても逐一、報告することができず、老中で見解がまとめられ報告された。
その家慶が6月22日に他界。

病弱の家定が将軍となり「将軍継嗣問題」で慶喜が中心となることを
この時点で15歳の本人はまだ気づいていなかったのでしょう。




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