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翔ぶが如く 第1部第14回 桜田門外の変

(1990日)

安政7年(1860)1月頃でしょう、大老井伊の襲撃を3月20日の決行することになり、
薩摩藩からも京への上洛が期待されていた。


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以前に、藩主より諭告書を頂いていたが、誠忠組からも脱藩して呼応しようとする者が現れる。
西郷吉之助の弟信吾もその一人だった。
大久保は、まず自分を斬り、その後信吾の切腹を条件とし制止する。


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予定が早まり、3月3日となる。
まず一人が上訴として行列を止め、一斉に襲い掛かる。


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有村俊斎の弟次左衛門にチャンスが訪れた。


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井伊直弼は覚悟していたのでしょう。抵抗しようとしなかった。


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「井伊直弼の首、討ち取ったり」
次左衛門は誇らしく、宣言する。


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兄弟の有村雄助が報告役で薩摩に向かった。
参勤交代で江戸に向かう途中の藩主に無事に報告する。藩主らは「事変」を理由に引き返した。
そして雄助は、薩摩へ先に帰ってきたのでしょう。
国父島津久光は「薩摩が井伊を討った」と喜んだ。


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が、重臣会議で雄助は切腹となる。兄 有村俊斎は弟2人を失うこととなった。


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藩から「まだか」と督促されるのを恥とし、その日の内に実行した。


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3月11日、大久保は久光に拝謁、「これを機に上洛を」と迫ったが、あえなく却下。
 『翔ぶが如く』では初の対面となっているが、
『西郷どん』では碁を始めた前年の安政6年(1859)に対決していた。
 

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翔ぶが如く 第1部第14回 桜田門外の変


大久保は藩を挙げての上洛を望んだが、
尊王攘夷過激派となった有馬新七と西郷信吾は、露骨に大久保を無視した。
第2部から見た私は、最終回の大久保の死体を涙を流し丁重に扱った信吾を思い出す。
密度の濃い人間関係の中での命を懸けたドラマでした。






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