SSブログ

徳川慶喜 第5回 日米和親条約

(1998日)

嘉永7年(1854)1月、ペリー再来航の月となる。が、1年後のはずだった。
第12代将軍家慶の死を知ったペリーが笑いながら日本に向かっていた。


ynob1.jpg

この月、平岡円四朗(新井康弘)が一橋家雇小姓となる。
後に暗殺されるが、『翔ぶが如く』では山縣有朋を演じ、渋いところを攻めてくる。


ynob2.jpg

水戸藩前藩主 徳川斉昭は、16歳となった慶喜に社会の勉強をさせてくれと、
町火消「を組」の頭夫婦に頼んだ。
その際、10年維持できるというアンチエイジング剤を提供する。


ynob3.jpg

米国使節応接掛となる井戸覚弘が浦賀にペリー艦隊が現れたと第一報を持ってきた。
老中首座阿部正弘は老中の松平忠優に、警備にあたる藩を選び出陣するよう命じた。


ynob4.jpg

ペリー艦隊7隻は、浦賀から江戸湾に入る。


ynob5.jpg

ポーハタン号船室で参謀長ヘンリー・アダムズに対する。
左、浦賀奉行支配組頭 黒川嘉兵衛
右、徒目付 平山謙二郎

友好の念を示すため国書を渡した。
また、浦賀に戻るよう要請するものの、冬の海で波荒く無理だと譲らなかった。


ynob6.jpg

1月25日、江戸城御用部屋にて、
左側が老中、右に海防参与の徳川斉昭と海防係となった藤田東湖と戸田忠敬。

そこへ礼砲が鳴り響き、ペリーの威嚇だと斉昭は怒りを示した。
西暦2月22日がワシントンの生誕記念日だと理解する者がいた。


ynob7a.jpg

日米和親条約が3月3日締結となる。
文書を回覧した。



ynob7b.jpg

満足して立ち去るペリーだった。


ynob7c.jpg

孝明天皇と関白鷹司政通


ynob8.jpg
徳川慶喜 第5回 日米和親条約


慶喜と側近は「を組」に出入りすることとなる。

後に側室となるお芳と出会った。新門辰五郎と遊女の子で
れんが引き取って育てた娘だった。

この時期が慶喜にとっての楽しかった青春時代だった。





最後まで読んで頂きありがとうございます。
押して下さると、励みになります。お手数、誠に申し訳ございません。
クリック恐悦至極に御座います。
  ↓ ↓


人気ブログランキング
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。