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徳川慶喜 第6回 安政の大地震

(1998日)

前回、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約が締結された。

この年正月、薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸に向かう。
随行していた西郷隆盛は4月にお庭方となり斉彬の命を直接受けることとなる。


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斉彬の手紙を東湖に届けに来たと『翔ぶが如く』も同様の出会いとなる。
が、4月10日に先に知遇を得ていた薩摩藩士の樺山三円の紹介が事実のようだが、
ドラマ化にあたり簡略化されたのやもしれません。


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島津斉彬が一橋家に慶喜を訪れ、将軍に相応しいか見定めようとした。
実際は、安政4年(1857) 3月27日に初めて面会し将軍継嗣に確信を得たようだ。


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幕府が薩摩藩より後込め銃の献上を受ける。
「日の丸」も薩摩の勧めだった。



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徳川慶喜 第6回 安政の大地震


安政2年(1855)10月2日、江戸を大地震が襲った。

この地震で藤田東湖が他界する。49歳。
水戸学藤田派の学者、徳川斉昭の下で海防掛を務めた。
西郷隆盛は尊敬する人物として橋本左内と東湖を挙げた。
が、勝海舟は嫌った。

『翔ぶが如く』で西郷は東湖が斉彬を蘭癖としたことに影響を受け、
そのまま命懸けで「殿は蘭癖」と諫めた。

が、斉彬は、蘭学も尊王攘夷も、どちらにも過激になってはいけない、とした。
西郷は涙で心を改め、斉彬に尽くした。

それでも、後年、西郷は語ったそうだ。

「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」

どの時点かは不明ですが、晩年、キリスト教に改宗した西郷であろうと、
かつて自分が尊敬した人の思い出は、不変だったのでしょう。







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