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翔ぶが如く 第1部第16回 吉之助帰る

(1990日)

文久元年(1861)12月28日、大久保一蔵は、薩摩を発ち京に向かった。


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国父久光による上洛の勅許を得るためだったが、
近衛忠煕は、安政の大獄による謹慎中であること、
和宮降下による公武合体が成っていることを理由で反対した。


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吉之助や月照と行動を共にした福岡藩士平野国臣は、
脱藩し京や大阪で薩軍と合流する同志を募っていた。
長州や四国からも脱藩者が続出していると藩内で煽っていた。


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1月12日、大島に妻子を残して鹿児島に戻ることとなる。


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有馬新七ら尊王攘夷過激派は、京で勅諚をもらったら堺所司代を襲い
関東へ進む計画だった。

脱藩浪士を鎮めることを命じられた大久保だったが、人望という点で西郷の力を必要とし小松帯刀に西郷帰還後、速やかに久光へのお目通りをお願いする。


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2月12日、3年ぶりに実家に戻った西郷だった。そこへ、村田新八が腕相撲の勝負を申し出てきた。


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15日、吉之助は久光と会見する。
 「上洛は2月25日。気づいたことあれば進言せよ」
とのことだったが、西郷は、長引けば3000人の食料はどうするのか
京の米価が上昇し恨みを買うことになる。
斉彬様は、江戸育ちで知り合いが多かったが、時期を延期すべきと反対した。


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(中山尚之助、小松帯刀、谷村愛之助)

先に席を立った久光に大久保は従った。
残った3人に、西郷は、「斉彬は人望があったが、久光は田舎者」
と言ってしまった。
この後、中山がチクって久光はキレた。



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(森山新蔵、平野国臣、西郷吉之助、村田新八、白石正一郎)

「九州各藩の探索をし、下関で待て」との命を受け、
3月3日、鹿児島を発ち、22日、富豪の白石邸に着いた。
そこで、有馬新七ら浪士の京での企てを聞き、鎮めるため、
「下関で待て」との命があったが、吉之助と新八、森山は直に京に向かった。


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西郷は浪士を大坂薩摩藩邸に食事付きで世話することにした。
暴発を防ぎ、京から離すことに成功したが、そこへ有村俊斎が動向を探りにきた。
有馬新七や脱藩浪士らは幕府と戦う訓練と準備に勤しんでいた。


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明石の薩摩藩陣屋で島津久光は有村俊斎の報告を聞いた。
俊斎は情勢判断が甘く、斉彬の懐刀だった吉之助が頭となって倒幕に向かうと理解し、大坂の藩邸での浪士の血気と西郷への信望を久光に伝えた。
久光は、置き去りにして恥をかかせ、浪士を煽ったとして「西郷を殺せ」と命じた。
「釈明の機会」を大久保が求めたが、久光は「必要なし」とし、出ていった。


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翔ぶが如く 第1部第16回 吉之助帰る


部屋に残ったのは、大久保と小松、俊斎だった。
2人は俊斎を震えながら見据えた。

「有村どん、おはん、何ちゅう報告をなすっとか」

小松帯刀の言葉に、ようやく事態に気づいた俊斎は、発狂した。
笑うところではなかったが、NHKは「20:43、ラストで佐野史郎の発狂」と決めていたのでしょう。
やられましたね。





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