SSブログ

徳川慶喜 第22回 母と子

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は死んだ。
そして、同年、8月15日、水戸に永蟄居となった徳川斉昭が他界。

和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、結納はまだなので、
幕府は井伊の公武合体路線を引き継ぎ関白九条尚忠に働きかけた。


ynob1.jpg

生母勧行院が死で降嫁を阻止しようと決意したが、和宮は気づいて止めた。


ynob2.jpg

九条は侍従の岩倉具視に、自分が悪者になっているのを愚痴った。


ynob3.jpg

岩倉は、和宮降嫁の条件で幕府が10年での攘夷を飲んだことを、
700年来の朝廷へ実権を取り戻すチャンスだと九条を力づけた。


ynob4.jpg

(脇坂安宅 久世広周 安藤信正 本多忠民)

井伊により老中となった安藤だったが、すぐに井伊の暗殺となり、
安藤は井伊により罷免されていた久世を再登用し、久世・安藤政権となった。

安藤は10年後の攘夷の約束を心配していたが、脇坂は当面のことが大事だとした。

その矢先、フランス代理公使から配下のイタリア人1人が侍に殺されたと報告があり、
老中たちに緊張が走った。


ynob5.jpg
徳川慶喜 第22回 母と子


その頃、火消しの「を組」の頭・新門辰五郎の娘お芳は、
母が実母ではないと噂を聞いたガンツムの話を聞いてしまい、
ガンツムを捨てた母が現れた話と交換に真実を確認しようとした。





コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。