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鎌倉殿の13人 (14)「都の義仲」

(2022日)


寿永2年(1183)3月、木曾義仲は嫡男義高を鎌倉へ預けることにした。


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山猿と思いきや長女大姫の婿に相応しいと歓迎することとなった。


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5月、義仲は倶利伽羅の戦いで平維盛の10万の軍勢に対し大勝利。
7月に入京することとなった。


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宗盛は都落ちに際し、安徳天皇をお連れすることにした。
三種の神器も忘れなかった。


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三善康信が見聞きすることを報告してくれた。


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法皇に拝謁。三種の神器の奪還を仰せつかったが、
義仲は知らなかった。
が、さすがにこれはドラマで義仲がかわいそうでしょう。

平家の都落ちから5日後に源氏一門に恩賞が下された。
勲功順位は、頼朝、義仲、行家だった。
法皇へ手紙を出して、西を平家、東を源氏が治めると申し出た結果だった。
頼朝が源氏の棟梁だとの印象を与えたつもりだったが、
義仲と行家の苦情で法皇様に実態が知られた。

義仲勢は京に滞在するも兵が町を荒し、法皇より即時出陣を命ぜられる。
が、備中に向かい苦戦。
頼朝はこの機に大量の贈り物を届け、流罪が解かれ、従5位下に復帰となった。
東海道・東山道の軍事支配権が認められる。



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(木曾義仲 平知康)

頼朝の動きを知り素早く京に戻る。
「鼓判官」と呼ばれる平知康に山猿と罵られ一発くれてやったが、
後白河から謀反扱いされることとなった。


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丹後局が出てきて、都の何たるかが分かっていないと拒絶される。
以仁王の子北陸宮を安徳天皇の後継に推挙したことが大きかったようだ。


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法皇から義仲追討を命じられるも御家人が賛同しなかった。
大江広元の言により先発隊を出すことにし、義経を大将とすることとなる。
父を信じる11の義高は義経が不憫だとした。


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鎌倉で不満分子がグループを形成しだした。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


義時は、大江広元の言で誘われたら入るよう上総広常に言う。
まさか義時の言葉が自分を陥れるものだとは思うはずもなかった。





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