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鎌倉殿の13人 (26)「悲しむ前に」

(2022日)


建久9年(1198)12月27日、頼朝は落馬し、昏睡状態に入った。


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医者は、持って数日だとした。


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りくの意を受け時政は頼朝の弟阿野全成に還俗させて鎌倉殿にしようと説得。

義時は頼朝の意を受け頼家を鎌倉殿にすべく動いていた。
日本国総守護に頼家を就かせるべく朝廷に使者を送ることになるが、
喪中は昇進できないので急いで送ることにする。


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頼家は比企能員の娘との間に一幡が誕生していたが、
つつじが頼朝の叔父為朝の娘で源氏ということで正妻にしようとしていた。


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義時は、頼家とつつじの間に男子が誕生した場合の乳母夫を三浦から出して欲しいと頼んだ。
第3代鎌倉殿を育てるお役目であり、三浦義村は頼朝の意であるとの条件で引き受けた。


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建久10年(1199)1月13日、頼朝が他界。
安達盛長が骨壺を運び、御所の裏の持仏堂に納められた。


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比企は頼家を鎌倉殿に推したが、時政は阿野を推す。
義時が政子に決めてもらおうと間に入ると双方賛成する。


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が、政子は頼家に鎌倉殿になるよう求めた。
頼家はその気だったが梶原景時の言により一度断る。
政子は頼朝との昔話をしながら説得した。


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頼家が御家人の前で鎌倉殿として振舞うこととなり、
時政とりくが激怒。全成は拘らなかったが、実衣が政子にキレる。


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頼朝の服の汚れが肩にあったことから、先に気を失っていたと15の泰時は父義時に報告。
武人たる頼朝が馬に振り落とされたとの和田義盛らの噂を消しにかかった。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



義時は亡き頼朝に仕え頼家に後を継がせたことで自分の役目が終えたと伊豆に去ろうとするも政子は卑怯だとキレる。

頼朝が比企尼に捨てたと言って暴行を受けた清水寺の観音像が髷に入っていたが、
政子がその大事な形見を義時に渡し頼家を支えてやって欲しいと説得する。
義時はその二寸銀の観音像を握りつぶした。






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