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鎌倉殿の13人 (28)「名刀の主」

(2022日)


建久10年(1199)1月13日に頼朝他界。


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頼家が当然に鎌倉殿となるものの、13人衆が訴訟を受け、
梶原景時が頼家に取り次ぎ最終判断を仰ぐこととなった。


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5月に改元し、正治元年(1199)となる。6月、次女三幡が他界。


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乳母夫で13人衆の1人中原親能が出家し鎌倉を離れた。大江広元の兄だった。


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結城朝光が実衣に琵琶を教えていた。
朝光が仁田に頼朝が長生きしていてくれたらと頼家への不満を口にしたが、
善児が聞いていて梶原景時に謹慎を命じられていた。
実衣は自分が何とかすると動こうとする。


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頼家は人妻だろうが関係なかった。安達盛長の嫡男景盛の妻ゆうだった。


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頼家は盛長と景盛を呼び出し譲り受けようとしたが、2人は死を覚悟で拒否。
すると、頼家は本気で2人を殺そうとする。
そこへ政子が来て一喝。ようやく収まるも、
梶原景時が政子を呼んだことが分かった頼家が「覚えておけ」と睨みつける。


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梶原景時のやり方に我慢ならず、頼家に連判状を提出することにした。
まずは時政だったが牧の方の言で最後尾に署名する。
そして67名が集まったが、牧の方が左端を切り取り66名となった。
万一、頼家と景時が組んだ場合に粛清対象にならないようにとの素早い判断だった。

頼家は景時の役目を解き謹慎とする。


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(源通親 後鳥羽上皇)

後鳥羽と通親の養女との長男が幼い土御門天皇だった。
後鳥羽は景時の謹慎を聞き景時を迎え入れることにした。


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が、景時は義時に話してしまい、頼家から奥州への流罪となった。
正月となり、失意の景時は頼家の長男一幡を人質に取り京に逃げようとする。
しかし、義時が駆け付け観念。一幡を母へ返した。
そして、流罪地の奥州に向かうと言い、置き土産として善児を義時に譲った。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


かつて見せしめに上総広常を殺めた景時だったが、自分の番となった。
坂東のために頼朝を担ぐと言っていた義時の言を確認。

かつて義時に言った「刀は、斬り手によって、名刀にもなまくらにもなる。」
との言葉だったが、驕りもあったが、残念な主によって残念な結果となってしまった。






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