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鎌倉殿の13人 (27)「鎌倉殿と十三人」

(2022日)


建久10年(1199)1月11日出家、13日に他界となった。


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頼朝の死を知り、後鳥羽上皇は死亡の経緯を言い当てた。


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頼家は、政子から人を気持ちを奮い立たせたという義朝の偽ドクロを受け継いだ。


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頼家は鎌倉殿として所信表明を行う。頼朝を超えると大きく出た。
又、比企や北条を通すということではなく、各々が直接言ってくればいいとした。
梶原景時の意を受けていた。


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乳母夫として養育してやったことから当然重用されると思っていたが、
当てが外れキレかける。


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その頃、土御門通親の暗殺計画があったが、
捕らえることに成功。


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大姫との縁談話のあった一条高能に連なる御家人が捕まる。
頼朝に挙兵を促した文覚も捕まったが、
頼家にとっては知ったことではなかった。


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頼家は若い者を集めた。やる気と実力を求めた。
やる気のある者は去れ、という名言を頼家はまだ知らなかったようだ。

が、大量の訴訟、侍所別当を和田義盛と梶原景時が争っていることなど、
若い頼家には荷が重かった。


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義時は頼家の負担を軽減するため、文官4人と梶原景時の5人が訴訟を取り次いで頼家が判断できる形にもっていくことを考えた。

が、比企が梶原景時が入っている以上、自分も入れろと言い出した。
すると北条時政が7人衆にするとする。
次に比企は安達盛長を加える。
それに対し時政は三浦義澄と和田義盛を巻き込む。
更に比企は八田知家を誘うが、八田は金は受け取るが仲間にはならないとした。


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足立遠元も時政に求められ12人となるが、
政子の意により義時が13番目となった。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


13人衆が頼家に挨拶すると、頼家は6名を呼び寄せた。
小笠原弥太郎、比企三郎、比企弥四郎、中野五郎、江間太郎、北条五郎だった。

どうやら史実とは若干違うようですが、若者を集めても御家人の子弟なら
好き勝手はできないでしょう。






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