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鎌倉殿の13人 (42)「夢のゆくえ」

(2022日)


建暦3年(1213)5月、北条義時は和田一族を滅ぼす。
執権を名乗らなかったが、実力で右に出る者はいなかった。


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将軍実朝は北条から鎌倉を取り戻すべく、
後鳥羽上皇の指導に従うこととし、また泰時を側に置くことにした。
義時に直接にモノを言えるのは泰時の他にいなかった。


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実朝、泰時、三善康信が組み仕切りだしたので、のえが、執権になるよう迫る。
そこへのえの祖父二階堂行政も来て説得。藤原姓だったが、行政の代で二階堂を名乗る。
薩摩に移った子孫に苦学で田中内閣の官房長官となった二階堂進がいた。
昭和天皇への内奏を方言が聞き苦しいと断りながらも、覚えめでたかった直情型の人だったという。


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建保4年(1216)6月、源仲章が宋の技術者陳和卿を連れて戻ってきた。
初対面だが、夢で会ったことがあると言う。
実朝は信じて喜んだ。日記に残していたので陳和卿の言を証明してやる。
船を建造して宋と貿易することとなる。

泰時が実朝の日記を源仲章が盗み読みした上での芝居だと見抜いていた。


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後白河法皇の寵妃だった丹後局が立ち寄った。
政子が4人の子の内3人を亡くし沈んでいると、甘えるなと叱る。
普通は言えないことだった。


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鎌倉からの報告に後鳥羽上皇はご満悦だった。
船の建造は、実朝の権威を上げるご配慮だった。


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義時は御家人の不満を理由に建造中止に持ち込もうとする。
が、泰時の船に御家人らの名を刻むという案で、政子の判断となる。
実朝の夢か、御家人の不満による死の可能性の選択だった。
大江広元は政子に「逃げてはなりませぬ」と覚悟を迫る。


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翌建保5年(1217)4月17日、完成。が、重すぎて運べなかった。


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政子の入れ知恵により、京からの養子に鎌倉殿を継がせ、
自らは大御所となることにする。


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源仲章の顔にムカつく。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


6月、修行していた滋賀にある天台宗総本山の園城寺より18となった公暁が鎌倉に戻ってきた。
父親を殺された恨みを忘れさせることは、どの宗教でも難しいでしょう。






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