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鎌倉殿の13人 (43)「資格と死角」

(2022日)


建保5年(1217)6月、18となった公暁が鎌倉に戻ってきた。


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6年の修行期間、鎌倉殿となるべく心身を鍛えていた。


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実朝より京から養子を迎え鎌倉殿を継がせる計画を知る。
その場では平静を装うことはできた。


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どうにか実朝の計画を潰すことができないか、密談する。
義時も思い浮かばない。


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後鳥羽上皇の4人の親王から選んでもよいという手紙を頂き、
政子が京へ向かうこととなった。


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政子は、藤原兼子に干しダコを土産にした。
兼子が頼仁親王を育てたこともあり、
頼仁親王を鎌倉に迎えることで兼子も最大限の敬意を約束した。


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時房が蹴鞠に長けていると聞き上皇が自らお出になられた。
時房が肩に手を当てたことで騒ぎとなる。
が、上皇は問題とせず、早く話を決めるとされた。


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京より知らせがあり、頼仁親王が鎌倉に降ることとなった。
実朝が左大将となり頼朝の右大将を超え、政子が従三位となる。
泰時には讃岐守に推挙する話となる。


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その晩、義時は泰時に讃岐守を辞退するよう命じた。
泰時がこの先執権となった際、源仲章が妨げとなるので、
借りをつくってはならないとした。


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源仲章はのえに近づいた。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


公暁は父や兄の死について母より何も聞かされてなかった。
平穏に過ごして欲しいという願いからだった。
三浦義村は驚き、自分の口から言う訳にはいかないとしつつも、
全て話し、実朝の存在を否定。
後は、勝手に憎しみが増幅し、頼仁親王を迎えるまでに実行すると考えられるのでしょう。






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