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その時歴史が動いた 羽柴秀吉、謎の敵前退却 〜賤ヶ岳合戦・勝利の秘策〜 [歴史動画]

(2001日)天正10年(1582)6月2日、本能寺にて信長と長男信忠が死去。
毛利と和解した秀吉は、13日に山崎の合戦にて光秀を討つ。

その功績を片手に、27日の清州会議に臨んだ。
とはいうものの、この時点では単に織田家の有力者の1人に過ぎなかった。

会議を招集した織田家筆頭家老の柴田勝家は、
まず、後継者問題を議題とし、三男信孝を推した。
が、秀吉は信忠の3歳の息子三法師を推し、丹羽長秀の賛同を得た。
丹羽とは事前に領地配分の合意ができていた。

次は領地再配分だった。
秀吉が手塩にかけた長浜城を勝家は要求したが、
秀吉は勝家の養子の勝豊なら筋が通るということであっさり了承した。
勝家と仲が悪かったことを知っていての機転で、
後日あっさり寝返らせた。

翌年の賤ケ岳の戦いは、長篠設楽原の例に従い陣を構築。
さすがに勝家は無理と判断し兵を引いた。
そこへ、美濃の信孝が挙兵し、挟み撃ちされる危険が生じた。
秀吉は大垣城まで南下する。
これを機に勝家は総攻撃で陣を突破した。

ここから勝家の独断場になると思いきや、大垣の秀吉は
電光石火で賤ケ岳へ向かった。これが見事だった。
これまで秀吉にはネガティブな見方をしてましたが、
今回は、感服し寒くなりました。

一方の勝家は信長が追放した将軍義昭に親書を送るなど、ことごとく古い体質だった。
信長を君主とする古参武将としてなら最大限の活躍をしたのでしょう。


羽柴秀吉 VS 柴田勝家 / 賤ヶ岳合戦 勝利の秘策 /... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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