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徳川慶喜 第28回 上洛への道

(1998日)

文久2年(1862)将軍後見職の勅命を頂いた慶喜だったが、
8月21日の生麦事件の後始末、天璋院からの要望、和宮からの要望、
その他、あらゆる案件が集中し忙しくなった。


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特に頭を悩ませたのが、薩摩の久光が江戸へ下向していた隙に、
長州が幅を利かせることになり、破約攘夷論を拡げていた。

井伊直弼が結んだ勅許を得ない不平等条約を破棄した上で、
改めて結ぼうというものだった。

松平春嶽も破約攘夷を唱えたが、慶喜は先延ばしにする。


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水戸で、慶喜の母に、将軍後見職として京に向かうことを知らせた永原の祝意に
貞芳院はキレる。

将軍になることを嫌っていた慶喜が勅命で嫌々将軍後見職を受け、
荒波を渡っていかねばならないご時勢の役職だったからだった。


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京都所司代の上に京都守護職を置き、慶喜は松平容保に命じた。


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慶喜側近の中根が、慶喜上洛の際のお供を町火消の新門辰五郎に頼んだ。
京では天誅が横行しており危険だったが、
中根に伏してお願いされたことから辰五郎は快諾する。



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NHKオンデマンド 徳川慶喜 第28回 上洛への道

(水戸藩家老 武田耕雲斎  水戸藩士 梶清次衛門)

一橋家に仕える者たちは幕府の役人で心許せる者は少なく、
慶喜は、上洛にあたり彼らに同行を頼んだ。






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