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その時歴史が動いた 鎧(よろい)をまとった母・淀殿の悲劇 ~裏切られた平和への願い~ [歴史動画]

(2002日)淀殿は秀頼が不義の子であるとなど、江戸時代に貶められる。
私が最近視聴した大河ドラマ『葵 徳川三代』総集編では、
大野治長だったが、江戸時代の『明良洪範』にもあるようだ。

冬の陣で淀殿は自ら人質になっても良いと家康に伝えたが、
家康は大阪城を砲撃し外堀を埋めることに拘った。
こうして、豊臣家を滅ぼすことを決めていたのでしょう。

淀殿は秀頼の名で神社仏閣の復興を90にわたり力を入れたが、ご利益は無かった。

家康が平和を260年の平和を構築したといっても、
ここまでの強権を発動してのことだった。

江戸時代の識字率や教育水準が高かったなど、表面的なプラス面もあるが、
基本的には、かなり老獪な軍事政権でしょう。


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その時歴史が動いた 鎧(よろい)をまとった母・淀殿の悲劇 ~裏切られた平和への願い~

----memo


江戸時代に悪女とされた。

90の神社仏閣の復興 秀頼の名で

生涯の敵 家康

慶長20 1615 0508 夏の陣 淀殿自害


茶々 少女時代

天正元年1573 828

ts11 1583 424 二度目の落城

秀吉の側室となる

正室との確執 

ts16 1588 秋 茶々 妊娠 
文禄2 1593 0803 秀頼誕生
 
 慶長3 1598 818 秀吉死去

 kt4 1599 9 おねの退去

関ヶ原後 家康 豊臣家の領地を大幅に削減 3分の1に激減


淀殿 京極たかつぐへの手紙 
  うつ 

kt8 1603 0327 征夷大将軍 
  0728 秀頼と千姫結婚 秀忠娘

 家光の誕生を淀殿は喜ぶ

 
 対立と協調路線 
   関西は公家や神社仏閣を秀吉がおさえていた

 寺社勢力 文化面は豊臣というすみわけ

 京都市 北野天満宮 kt12 右大臣秀頼の名で全修築

 
 kt16 1611 3  二条城の家康のもとへと連絡

  京で熱狂で迎えられた
  
   会見 2時間 家康 賢いと評する

   秀頼 立派に成長
   
  kt19  1614 寺院法度
    方広寺修築 片桐且元が江戸
 淀殿は大蔵卿を家康へ
   安心させられたが、
 且元は逆の報告をした
  
  家康の要求 城を出る 秀頼を出す 淀殿が人質

  且元は味方に襲撃される
    知った家康は口実にして出陣

    家康の社交辞令だった 大蔵卿へ
    それを見抜く人材がいなかった

   秀頼への協力の手紙を出す
 前田家は無視 福島正則は追い返す
  池田としたか 使者を家康へ

  1119 冬の陣
   翌日 和睦の使者を 
  1215 淀殿は自ら人質となってもよい 
     が、家康は砲撃

     堀の埋め立てに同意

 春 家康 秀頼か牢人がでるか

   5月6日 夏の陣 7日炎上 8日自害 
   淀殿47 秀頼23   やまざとくるわ

  260年の平和となったが、
 女性史の目では 女性の立場は縮められた
 
 
 淀殿の近くにいた者のエピソード

  墓暴きで抹殺 

 養源院 京都市東山区 
   浅井長政と市のために淀がたてた
 
  淀殿秀頼国松をまつった 三宝寺

   淀を慕って侍女が建てた 幕府の目がありながら



 



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