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徳川慶喜 第2回 新しい母

(1998日)

生まれてすぐに水戸に移された七郎麿は、弘化4年(1847)8月、
江戸で暮らすことになった。母と会うこととなる。


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第12代将軍徳川家慶は、一橋家の養子に七郎麿を迎えるよう老中首座阿部正弘に命じた。
御三卿一橋家の第8代当主昌丸が夭折しようとしていた。
前藩主徳川斉昭が養子しないという方針を知ってはいたが、謹慎解除を付けた。



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その頃、水戸藩駒込中屋敷で町火消「を組」を招いていた。


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頭の新門辰五郎、斉昭と吉子(正室)



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他家への養子には出さないと聞いていた七郎麿が、ムシャクシャする。
「偉く」振る舞い為か、髭を書かせた。
その後、エスカレートする。数え11だった。


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江戸城にて将軍家慶に謁見する七郎麿。
この時、「慶喜」が与えられる。「よろこぶ」を重ねた。



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一橋家当主となり、第7代当主一橋慶寿の未亡人、17歳の養祖母と会う。
慶喜付きの老女 松島(岸田今日子)が呆れる。



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5年後の嘉永5年(1852)、阿部正弘は老中を集めて、
オランダ商館の報告書に来年にペリー艦隊が来るとあったと伝える。



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徳川慶喜 第2回 新しい母


その頃、慶喜は、刺繍に励んでいた。



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翔ぶが如く 第1部第13回 正助の布石

(1990日)

安政6年(1859)1月、西郷吉之助は菊池源吾と改め奄美大島での生活を始めた。


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罪による罰ではなく、幕府から身を隠すための藩の措置なので、
生活に不自由はなかったのでしょうが、月照を残して生きたことや
安政の大獄での一橋派だった知り合いが心配でもあったでしょう。
家を覗きにきたガキを睨みつけ、まだ落ち着いていない心理を描写する、


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その頃、大久保は、島津久光が碁を嗜むと聞き、妻から基礎を学んだ。
が、それはドラマであり、実力があった上で吉祥院の乗願に弟子入りしたようだ。


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平田篤胤の『古史伝』を誠忠組で回し読みしていたが、久光の碁の相手である乗願に話題をフリ、久光から貸してくれということになった。
全37巻を1冊ずつにすることで長期とし、そこに手紙を挟み伝えたいことを伝えた。
怒りを招く可能性も承知していた。


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この頃、水戸藩士の過激派は大老井伊直弼を襲う計画を立てていた。
彼らと交流があった誠忠組は京都で幕府寄りの関白九条の襲撃を目論み、脱藩を決意した。
大久保は、久光の側近の谷村愛之助に別れを告げる形で、久光の耳に入るようにした。
谷村は元々は斉彬の小姓だったが斉彬の死により藩主忠義の小姓となった。
実際は忠義から久光へ伝わったようである。


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藩主忠義の名で誠忠組に「誠忠士面々へ」と脱藩を思い留まるよう諭告書が下された。


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有村俊斎は弟の雄助と次佐衛門が水戸藩士と共にしていたので反対するも
この後、大久保は「なら、刺し違えよう」と説得する。
そして、49名の連名で請書を提出した。


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翔ぶが如く 第1部第13回 正助の布石


大島の菊池源吾も島での生活に慣れ愛加那と結婚することになる。
サトウキビを舐めただけで少年が捕まり手足に枷を嵌められる現状に怒り、助けることもした。
この時点で、これから生まれてくる子が渡米して留学、京都市長になるなぞ誰も知り得ないことだった。










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徳川慶喜 第1回 母の不在

(1998日)

年内で『翔ぶが如く』を見終えようと予定を組みましたが週4ペースはきついので、
別の作品を入れることにしました。幕府の視点で評価の高い『徳川慶喜』を鑑賞することにします。


徳川慶喜、幼名・七郎麿(しちろうまろ)は天保8年(1837)に水戸藩の江戸藩邸で生まれたが、すぐに水戸に移され母を知らずに育った。

父は、第9代藩主徳川斉昭、他の幕末ドラマでは老害の扱いだが、
この作品では英邁な君主としている。



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天保15年(1844)、斉昭は幕府に理由なく呼び出された。訝る3人。
戸田忠敞(ただあきら)は執政、右は側用人の藤田東湖。
東湖は後に西郷隆盛が尊敬し、安政の大地震で死去する。


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7歳の七郎麿はその頃、「新論」で高名な会沢正志斎から学んでいた。

江戸に向かった斉昭は、隠居謹慎命令が幕府より下った。
役職は無いものの副将軍という俗称で呼ばれていたが、老中に嫌われ
「7つの大罪」が列挙された。
寺を潰し僧侶を追い出したこともあったが、幕府は承知していたことだった。
罪ではなく政争であり、藤田東湖や戸田忠敞など蟄居を命じられる。


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斉昭は隠居となり、即日、長男の慶篤が第10代藩主となる。
斉昭は中屋敷に移るが、正室の吉子には上屋敷に残って慶篤を支えるよう指示。
吉子は有栖川宮織仁親王の娘で霊元天皇の曽孫だった。
吉子の姉が第12代将軍家慶の正室でもあった。
2人は有力上士の結城寅寿が幕府と通じる裏切り者と理解していた。



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藩内に怒りが溢れる。
後に家老となる安島帯刀は堂々と、「斉昭様に謀反の罪なく陰謀」と主張。



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藩士の怒りを鎮める2人。
弘道館の初代教授頭取・会沢正志斎(せいしさい)と家老・鈴木重棟(しげむね)




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藩主慶篤の挨拶を代わりに行う、結城寅寿。
   ・僧侶の処遇を戻す
   ・鉄砲をそろえない
   ・弘道館で幕府の方針に異を唱えないこと
   ・天狗派の道楽、財政厳しい中、東湖らが弘道館で費やした
と、4点語る。


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徳川慶喜 第1回 母の不在


その頃、七郎麿は出会った女の子から服を持ってこさせ女装する。
堂々と城を脱走。江戸までの遠足を目論んだ。
後の第15代将軍徳川慶喜、父にとっては末楽しみな少年時代だった。





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翔ぶが如く 第1部第12回 吉之助入水

(1990日)

安政5年(1858)11月、月照は吉之助の家に到着するが、藩庁が預ることとなった。


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が、左右田宗之進の月照保護の言も空しく重臣会議で、「日向送り」と決まった。
幕吏に見つかったら大変とのことで、「藩境で殺せ」との意だった。


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吉之助は後ろから斬り、自決するつもりだったが、月照は入水を選んだ。


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(森山新蔵、平野国臣、大久保)
筑前福岡から月照の警護をしていた福岡藩士の平野も同じ舟に乗っており、
中で飲んでいたが、2人がいないことに気づき、暗く寒い中、助けようとした。
が、薩摩までの旅路で消耗していた月照は死亡。吉之助だけが辛うじて助かる。

京へ向かう平野に森山は5両の餞別を渡し、大久保と礼を言って見送った。



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前々藩主島津斉興は、吉之助が斉彬の見込んだ者ということで、
別人にさせた。墓と別の死骸も埋めて、幕府が墓を掘り返すことも想定してのことだった。



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12月半ばに回復。大久保より安政の大獄の情勢など聞き、
死ぬ場合ではないことを諭され、朝鮮人参を貰う。

奄美大島行きを命じられたが、そこで殺されるかもしれないと、
吉次郎や大久保は心配したが、
西郷は、「天に生かされたので」と、この頃から「天」を意識したのでしょう。


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翌、安政6年(1859)1月2日、正月、西郷は大島へ向かう。
出航前、山川港にて大久保に初の指令所を書く。
が、実際は親友の伊地知正治が大久保の手紙を預かり、この場で西郷が返書を書いた。


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1月、大島龍郷村に到着。


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翔ぶが如く 第1部第12回 吉之助入水


この頃、薩摩の大久保一蔵は、非力を痛感し権力を意識する。
安政の大獄、斉彬の死と藩情勢の変化、吉之助の変化を見てきた。
自分自身もお由羅騒動で謹慎を経験した。

この年、大久保は国父・島津久光の相手となるため、碁を学び始めた。

嫌悪する由羅の系列とはいえ、目的のための手段と割り切った。





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西郷どん (44)「士族たちの動乱」

(2018日)

明治6年(1873)11月、鹿児島に戻った西郷吉之助だったが、
西郷を慕い、次々と薩摩人が戻ってきた。
陸軍、近衛兵、警察などから600人の数に上ったという。


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(別府晋介、桐野利秋、篠原国幹、辺見十郎太)
彼らは西郷を東京に引き戻そうと来た。
別府は、陸軍少佐、朝鮮の偵察をしたようだ。
桐野は陸軍少将、陸軍裁判所所長。
篠原は陸軍少将、近衛局長だった。
辺見は、篠原の下で近衛陸軍大尉、三国志の張飛のようらしい。


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村田新八と川路利良が洋行から戻ってきた。
別々だったが帰国の時期が重なったのやもしれない。
川路は警察制度の整備にまい進する。


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(大久保満寿、おゆう)
西郷の下野、強権政治と薩摩の大久保宅では住めなくなり、
東京で暮らすこととなる。
互いに「お世話になってます」と火花が走る。


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明治7年(1874)2月、「佐賀の乱」
3月1日、逃げだした江藤新平は西郷に決起を促すも拒否され、
捨て台詞を吐き出ていった。


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自宅に招いた青年のアコーディオン芸を楽しむ家族たち。


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佐賀の乱から大久保が帰ってきて、今後について話し合う。
が、江藤を前近代的な晒し首にしたこと、木戸をはじめ引き気味だったが、
岩倉は笑っていた。
江藤の生首写真を回覧して笑ったのなら並の神経ではない。



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西郷どん (44)「士族たちの動乱」

西郷は鹿児島県令の大山綱良に頼み「私学校」を作った。
不平士族の学びの場で、篠原が銃隊学校、村田が砲隊学校を監督。
軍事や漢文を教え、午前9時から12時だったようだ。
吉野開墾社では昼に開墾、夜に勉強だった。


桐野利秋は、西郷に東京で政治を変えて欲しかったが断念した。
3度も説得しようとし失敗し、派手に立ち回って登場した。
「お世話になりもす」
桐野は深々と頭を下げた。




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翔ぶが如く 第1部第11回 大獄の嵐

(1990日)

安政5年(1858)7月16日、薩摩藩主島津斉彬が死去となる。
京にいた吉之助に手紙が届いたのが27日だった。
直に左大臣近衛忠煕に伝える。同席していた月照は吉之助の覚悟に気づいた。


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その晩、薩摩藩御用達の旅籠・鍵屋に月照は吉之助を訪ね、殉死を諫めた。
斉彬の意思を継ぐことが忠であり、殉死は不忠、とのことだった。
吉之助は子どものように泣きじゃくった。


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翌日、伊地知正治と吉井幸輔が来訪。井伊が下した処分の取消を求めることにした。
月照からは、幕府協調路線の関白九条尚忠は孤立しているとのことだった。


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水戸・尾張藩への孝明天皇の内勅の写しを西郷に手渡す近衛。

京から江戸まで4日半で駆け付けた。
籠を担ぐ方は何度か交代するが、担がれる吉之助も大変だった。


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薩摩藩三田藩邸にて会談。
越前の橋本左内、水戸藩から金子孫二郎と関鉄之介。
関が桜田門外の変の実行部隊のリーダー。


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西郷の後ろに、有馬新七、有村俊斎が控えていた。
さらに、変に参加した弟の有村雄助、有村次左衛門でしょう。


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水戸藩家老安島帯刀邸
勅諚を見せたが、斉昭は謹慎中で無理とのことで受け取らなかった。

仕方なく、勅諚を有村俊斎に託して月照に返すことにした。
が、吉之助の江戸情勢の報告を待たず、朝廷は正式な勅諚書を水戸と幕府に届けた。



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井伊は水戸の勅諚を他藩へ回さぬよう指示した。
老中間部詮勝には、京に行き、「奴ら」の取り締まりを命じた。


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翔ぶが如く 第1部第11回 大獄の嵐


幕府の手が迫り、月照の護衛を近衛から奈良までと頼まれたが、危険なので薩摩に向かうことにする。
大阪から船で下関に寄り、豪商白石正一郎の世話になる。
月照はカステラに手をつけた。

吉之助は、有村俊斎に警護を任せ先に薩摩に戻るものの、
藩内は斉彬の死で守旧派が盛り返し、吉之助の活動はストップ。
斉彬の墓前で殉死すらできない現実に沈む西郷だった。




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世界一キライなあなたに [映画]

(2016米) バイク事故で歩けなくなり引き籠ることになった青年。
絵に描いたような大富豪で城に住み仕事とプライベートを謳歌していた。
反動で生きる気力がなかったが、裕福なため、男性介護士と女性のメンタルサポートを受けるなった。

恋愛となるが、



TSUTAYA 世界一キライなあなたに


----ネタばれ

好きになった女性に失望させたくないとお金を準備し自殺する。
女性は自由を得ることとなった。

両親も本人の強い意思を尊重するしかなかった。


綺麗に描写しているが、この作品のような
2人も雇える富裕層だけではない。
肯定して推し進めることは、「忖度して自殺しろよ」という無言の圧力となる。

そういう議論を招くことを承知の上で映画化したのでしょうね。






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春の波涛(はとう) 総集編 前編

(1985日)日本初の女優川上貞奴が主人公の実話。明治大正期の文化を学ぶつもりだったが、それだけではないようだ。
総集編と一つにまとめているが、前編・後編でいきます。

明治16年(1883)に完成した鹿鳴館で連日、舞踏会だったようだ。


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明治19年(1886)、伊藤博文にお願いして貞(15)は舞踏会で踊ったものの、
心の中は桃介(18)のことを考えていた。(もしくは明治20年)


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桃介は、慶応義塾在学中に房子の結婚を前提で福澤家の養子となることとなった。

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房子のお金を留学費用とするとのことで感謝する桃介。(養子前)


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桃介は恋仲だった貞がいて別れたが、房子は気になり兄と共に貞の顔を見ることにした。
嫌味な会話を交わす。

この日、貞がヤケになり、道で座り込んでいたところ、濱田屋まで運んでくれたのが川上音二郎だった。


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明治20年(1887)12月25日に制定、発布、即日施行の勅令で
26~28日に自由民権派の570人が東京退去となったようだ。
尾崎幸雄、中江兆民らと共に、たまたま濱田屋に顔を出した音二郎も捕まった。
「自由民権の危険人物」とのことだった。

音二郎は、明治15年6月(1882)、18歳で福沢諭吉により慶應義塾の学僕となり桃介とは4つ上で友人関係となっていた。


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明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法が発布される。
その頃から日清戦争時の頃まで、5年以上、『オッペケペー節』が大ヒット。


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明治27年(1894)、結婚に際して、金子堅太郎と伊藤博文。
金子は日露戦争時、アメリカで宣伝や交渉を担当した伊藤の三羽烏。
伊藤に「パリに行け」とのアドバイスで、川上はパリで学び帰国。
パリの経験を活かし演劇を成功させた。


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同年、桃介は吐血し、長期の療養生活に入った。そこから株式投資の経験を重ねた。
見舞いに来た貞は、桃介から株を学んだ。

この二人は33年後の今年『西郷どん』で夫婦を演じている。
1982年の映画『蒲田行進曲』では平田満(大久保の父)との3人は共演していた。


夫の音二郎が自前で劇場を持ちたいとの理由で桃介から株を学んだが、成功となる。
明治29年(1896)6月内助の功もあって「川上座」が完成した。


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が、音二郎に隠し子がいて、しかも貞が日頃可愛がっていた子だった。
貞はキレてカミソリを振り回し暴れる。


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6月14日、開会式に2000人集めたが、初日早々、貞のカツラが取れる事件となる。
上手くいかず、借金の返済が大変だった。
桃介の見舞いに行き相談する前に、家族が来て、その場を去った。


明治31年(1898)、音二郎は総選挙に打って出たが、15円以上の税納付者の制限選挙のため、
支持する層が違い敗北となった。


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音二郎は、海に出て、死ぬか生きて帰れるか試した。
助かったら芝居を続けようと決意、貞も共にした。

結局、助かる。

その後、日系アメリカ人の興行師からの話があり、
明治32年(1899)神戸港から19名でアメリカ巡業の旅に出た。


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春の波涛(はとう) 総集編


渡米したが、貞は騙され、実は貞を主役とした契約だった。

が結果、大成功。観客は沸いた。

しかし、売上を日系アメリカ人の興行師に持ち逃げされ、路頭に迷うこととなる。


基本的に実話の波乱万丈伝なので面白かった。
よく、これだけ調べて小説にしたものだと感心します。





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翔ぶが如く 第1部第10回 斉彬出兵計画

(1990日)

安政5年(1858)3月に京都で橋本左内らと次期将軍に慶喜を推す内勅を得る活動をした後、薩摩に戻ったようだ。


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元豪商の森山新蔵宅での飲み会。
一部過激分子が「チェストー」と暴れ出す。

6月、藩主斉彬が兵を率いて上京するので、
禁裏守護の勅上を得るために京に行けと吉之助は命じられた。
騎兵用元込め銃3000丁の準備も命じられる。



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(左端ハリスの正面、岩瀬忠震)
6月19日、日米修好通商条約調印、ハリスの功績を讃えるように21発の礼砲。


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23日、一橋慶喜、井伊直弼を問責。
   徳川ではなくお前の独断でしたことだ、と怒りをぶつけた。
   井伊は慇懃無礼に相手にしなかった。


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24日、越前福井藩主松平慶永、登城前に井伊直弼を詰問した。
   堀田を解任した理由を聞くが、かわされた。


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(徳川斉昭、尾張藩主徳川慶恕、水戸藩主徳川慶篤)
同日、水戸藩前藩主の斉昭らが押懸登城する。ここに松平慶永も加わる。
慶恕は後に慶勝、慶永は春嶽と名乗る。
午前10時頃に登城し、待たされ、退城したのが午後2時頃だったようだ。

井伊直弼は、翌6月25日 次期将軍に紀州藩主徳川慶福(家茂)と公表する。



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7月7日、吉之助、大阪に到着。吉井幸輔から井伊の条約調印を聞いた。
    激怒し、吉井と京都に行くこととなった。



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吉之助と吉井は月照と会っていたが、そこへ伊地知が突然、江戸より来訪。
第13代将軍家定の死と、死を隠して押懸登城の処分を7月5日にしたことを知らせに来た。
6日に亡くなったとの公式発表だった。
慶喜の登城停止、徳川斉昭は謹慎、松平慶永は強制隠居だった。



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近衛に斉彬の禁裏守護のための上京を伝える吉之助。



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翔ぶが如く 第1部第10回 斉彬出兵計画


7月16日、第11代藩主島津斉彬の死去となる。
弟の久光の子又二郎(忠義)を跡継ぎにすると久光に残した。
斉彬は5人の男児を失っていたが待望の6男哲丸が昨年生まれた。
健康で育ってほしいという思いだけで、甥に譲ることにした。
が、願い空しく、半年後にはその哲丸も他界することとなった。
斉彬の3人の娘はまだ6歳前後で幼かったが、後に久光の子の忠義と珍彦の夫人となる。

この時点では斉彬の死を西郷は知らなかった。





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英雄たちの選択 「徹底シミュレーション 江戸城攻略~由井正雪に勝機はあったか~」 [歴史動画]

(2018日)正雪本人に成功の確信は無く、「天が味方するなら」という捨て身であっても、京阪と同時に決起し本格的に緻密に後世に恥じぬ戦いをしようとしたのでしょう。

西郷隆盛は身を任せて死ぬことを選んだが、
正雪は自らの実力をここで示す必要があった。
失敗して笑われることなく、共感をもって語られることになった。

それにしても、江戸城の造りは防御策に満ちていた。
それを他人に金と労力を出させて徳川体制を守ることとした。

牢人にとったら偉い正雪さんが自分たちのために死んでくれた、
と、感謝して死んでいったのでしょう。


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英雄たちの選択 「徹底シミュレーション 江戸城攻略~由井正雪に勝機はあったか~」

----memo

最初の大規模な刑事事件
     
    島原の乱は最後の戦乱

手段としては暗殺誘拐 デモ+テロ
  
 少数で攻めるならやり方ある


昔は千代田区が城だった

 縦深性 少数だと探すのが大変
 大きすぎるから手薄になりかねない城

keian4 1651 723
京大阪同時 帝に将軍追討宣旨

3代で200の処分
 浪人牢人の増大

えんしょう蔵番人を一味に
岡山藩池田 紋所提灯

小説 駿府 金銀財宝
11歳竹千代

5800連判 10万

町人も含めて町全体が殺伐としてくる

大軍同士の決戦のための城

全国最大規模の枡形門

100人番所 忍者

keian4 1651 1210
幕府 末期養子の制度の緩和

武断政治から文治政治

 牢人 寺子屋 識字率へ貢献
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