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その時歴史が動いた 秀吉の妻・おね 関ヶ原を動かす ~西軍戦勝祈願の時~ [歴史動画]

(2001日)秀吉死後に、三成の近江派とおねを”母”とする尾張派との対立だった。
三成は娘をおねの養女に送り、家康も接近した。

その両者に挟まれ、西軍の戦勝祈願儀式への参加の選択が迫られた。
北政所の動向が秀秋らの心理に少なからず影響していたのでしょう。

1981年の大河ドラマ『おんな太閤記』の原作脚本を手掛けられた橋田寿賀子さんがゲストでしたが、
『渡る世間は鬼ばかり』もそうでしたが、あらゆる人の心理を自分が一体となったように瞬時に理解し表現されるのでしょうね。驚きでした。
面白かったですね。


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その時歴史が動いた 秀吉の妻・おね 関ヶ原を動かす ~西軍戦勝祈願の時~

----memo

豊国社 神職の日記 舜旧記
毎月18日命日 神社参拝 

三成接近 kt5 1600 718 戦勝祈願儀式 命日 当然行くべきだったが、
西軍に味方することになる
おねの選択

永禄4 1561 8
結婚26足軽 おね14

ts2 1574 長浜城に

またいとこ 加藤清正
いとこ 福島正則
おい 秀次 後養子
おねのおい 小早川秀秋

本能寺の変 1582 6
  長浜は明智軍の危機 
   おねは女性子どもを避難させた

 11日後 破る 

 1583 9 大阪城に入る
 1585 7 関白 おねは 北政所

秀吉のおねへの手紙
  秀秋をかわいがれ

 おね 武将にもきさくに接する

 1589 5 鶴松の誕生 茶々から淀殿へ

 秀吉と疎遠に

橋田寿賀子
  おんな太閤記 1981

淀殿を呼ぶのにおねを通す

  鶴松の誕生を正室として喜ぶ

朝鮮出兵 ts20 1592
  
 翌年 文禄2 1593 0803 秀頼誕生

  秀吉は養子たちを冷遇
    秀秋は小早川家に養子へ 
    秀次は1595 関白を下ろされ高野山 謀反の疑い 切腹
      三条瓦に首 妻子39人滅ぼす


秀吉の最後の花見 
  おねのうた
    ともないひて ながめにあかし 深雪山
    帰るさ惜しき 花の面影
  
  よどのうた
    花のまた君のためにとさきいでて
    世にならびなき 春にあうらし

 62歳で死去 
    本丸を秀頼と淀殿に渡し 西の丸へ移った が9月26日去る

  
  おねは「勝手にやってちょうだい」橋田

  京都へ 東山高台寺に 秀吉の遺品
   スリッパ 天皇から拝領したつえ 
   
  50過ぎて尼となる 豊国社へ参詣
  自宅から1時間半かけて通った
 
   命日含め年20回
 
三成ら近江派と 清正ら尾張派の争い 家康接近
 三成   1599 12 娘をおねに養女
           家康もおねに接近

  おね 態度ははっきりさせない

  6.15 上杉征伐
 
 
  717 三成 家康追討挙兵
  718 戦勝祈願 
    おねが来れば西軍に大義を認めたことになる

  湯たて神事 神社の者がむかえにいってもおねは動かなかった 

   おねの兄、木下家定が警護にきた

   「政所社参無し」

  725 正則 西軍諸将に手紙 
   
  915 

 晩年 高台寺 「現世安穏」刻む
   1614 1002 おね 大阪へ向かうが徳川方に阻まれる
   戻る

  11月 大坂の陣
    
   手紙「大阪落城のことについては、もう話すこともございません」

 豊国社は解体された。

   1624 77歳 死去 お霊や おたまや
         



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