その時歴史が動いた 弟・義経を討て ~源 頼朝・武家政権確立への決断~ [歴史動画]
(2000日)今回の「その時」は、文治元年(1185)10月24日。
頼朝が義経を討つと決断した日、
単に、権力者が兄弟殺しを決断した日、ではなく、歴史的に大きな意味があった日だったが、それを本番組で解説する。
ゲストは杉本苑子さん。大河ドラマ『春の波濤』の原作『冥府回廊』『マダム貞奴』を手掛けられた。
『春の波濤』は個々人の人間の考えや感情を細かく表現する。
その杉本さんだったが、この兄弟殺しを
「平安の貴族時代から、武家時代への転換を象徴する日」
とされた。
義経は、平家の栄華と京の文化を見て育ち、平家を倒して源氏が取って変わろうと考える。
が、頼朝は、東国で育ち武家の所領を安堵することが第一だった。
その育った環境の違いがベースとなり、新システムを構築しようとした頼朝との決定的な違いとなった。
今回、単に日本史の復習、源平対立、兄弟対立という点を押さえた上で、
歴史的な意味を俯瞰して学ぶこととのできる回でした。
その時歴史が動いた 弟・義経を討て ~源 頼朝・武家政権確立への決断~
----memo
文治元年(1185)10月24日 討つと決断した日
腰越状 義経が頼朝へ 手紙
時代を見る目
2人の出会い
所有権あいまい
武士の頭領 2大
1156保元の乱 清盛 義朝
1159 平治の乱
1179 平家に対して武士がたちあがった その1人頼朝
伊豆で20年流人
1180、8月 頼朝挙兵300人 大敗北
近隣武士が味方 はせ参じてきた
鎌倉時代の歴史書 東鑑
土地の所有権を保証することで関東武士を味方につけた
半年で20万にふくらんだ
1180 10月 富士川の戦い
平家軍は戦わず逃げた
その翌日 義経がかけつけた
が、 その後、頼朝は鎌倉へ
新体制を固めようとした
義経を特別扱いをしなかった。
関東武士団を無視できなかった
義仲、京へ入った
略奪 反感 朝廷は頼朝に義仲追討を命じた
義経と範頼を代官として遠征軍を派遣
杉本苑子
頼朝は所領安堵を第一とした
義経が見たのは平家の栄華を見てきた
育った環境の差
義仲は川の橋を潰したが、義経は超えた
が、平家が
一之谷 2手に別れる が、さらに義経は70で敵背後へ
大勝利
が、頼朝は恩賞を与えなかった。
手柄独り占め
後白河法皇から検非違使をもらう 喜んで頼朝に報告した
頼朝激怒 平家追討軍から義経を外す
1184 8月 義経抜きで戦
頼朝は義経の起用を決断
その頃、京都で頼朝の代官をしていた
屋島へ
義経 嵐でも出航すべき 梶原景時は慎重
独断で 背後へ 150キで追い払った
壇ノ浦へ
1185 3月24日 平家滅亡
不満が報告される
義経に従わなくていいと指示
義経、鎌倉直前で「入るな」
武士団の中で義経の独断に不満 頼朝は
義経は兄弟の情を訴える
腰越
5月24日 最後の手紙 万福寺 神奈川
頼朝は返事せず
2週間待って京都へ戻る
所領没収
8月16日 朝廷から伊予守 後白河法皇
平家討伐の恩賞
義経に密偵
1015 頼朝追討を願い出る 朝廷許可
1029 頼朝5年ぶりに鎌倉を出る
1111 後白河法皇 義経討伐
守護地頭設置
4年後 1189 奥州藤原へ
1192 征夷大将軍
首が送られたが、腰越で止められた
北海道 義経神社
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頼朝が義経を討つと決断した日、
単に、権力者が兄弟殺しを決断した日、ではなく、歴史的に大きな意味があった日だったが、それを本番組で解説する。
ゲストは杉本苑子さん。大河ドラマ『春の波濤』の原作『冥府回廊』『マダム貞奴』を手掛けられた。
『春の波濤』は個々人の人間の考えや感情を細かく表現する。
その杉本さんだったが、この兄弟殺しを
「平安の貴族時代から、武家時代への転換を象徴する日」
とされた。
義経は、平家の栄華と京の文化を見て育ち、平家を倒して源氏が取って変わろうと考える。
が、頼朝は、東国で育ち武家の所領を安堵することが第一だった。
その育った環境の違いがベースとなり、新システムを構築しようとした頼朝との決定的な違いとなった。
今回、単に日本史の復習、源平対立、兄弟対立という点を押さえた上で、
歴史的な意味を俯瞰して学ぶこととのできる回でした。
その時歴史が動いた 弟・義経を討て ~源 頼朝・武家政権確立への決断~
----memo
文治元年(1185)10月24日 討つと決断した日
腰越状 義経が頼朝へ 手紙
時代を見る目
2人の出会い
所有権あいまい
武士の頭領 2大
1156保元の乱 清盛 義朝
1159 平治の乱
1179 平家に対して武士がたちあがった その1人頼朝
伊豆で20年流人
1180、8月 頼朝挙兵300人 大敗北
近隣武士が味方 はせ参じてきた
鎌倉時代の歴史書 東鑑
土地の所有権を保証することで関東武士を味方につけた
半年で20万にふくらんだ
1180 10月 富士川の戦い
平家軍は戦わず逃げた
その翌日 義経がかけつけた
が、 その後、頼朝は鎌倉へ
新体制を固めようとした
義経を特別扱いをしなかった。
関東武士団を無視できなかった
義仲、京へ入った
略奪 反感 朝廷は頼朝に義仲追討を命じた
義経と範頼を代官として遠征軍を派遣
杉本苑子
頼朝は所領安堵を第一とした
義経が見たのは平家の栄華を見てきた
育った環境の差
義仲は川の橋を潰したが、義経は超えた
が、平家が
一之谷 2手に別れる が、さらに義経は70で敵背後へ
大勝利
が、頼朝は恩賞を与えなかった。
手柄独り占め
後白河法皇から検非違使をもらう 喜んで頼朝に報告した
頼朝激怒 平家追討軍から義経を外す
1184 8月 義経抜きで戦
頼朝は義経の起用を決断
その頃、京都で頼朝の代官をしていた
屋島へ
義経 嵐でも出航すべき 梶原景時は慎重
独断で 背後へ 150キで追い払った
壇ノ浦へ
1185 3月24日 平家滅亡
不満が報告される
義経に従わなくていいと指示
義経、鎌倉直前で「入るな」
武士団の中で義経の独断に不満 頼朝は
義経は兄弟の情を訴える
腰越
5月24日 最後の手紙 万福寺 神奈川
頼朝は返事せず
2週間待って京都へ戻る
所領没収
8月16日 朝廷から伊予守 後白河法皇
平家討伐の恩賞
義経に密偵
1015 頼朝追討を願い出る 朝廷許可
1029 頼朝5年ぶりに鎌倉を出る
1111 後白河法皇 義経討伐
守護地頭設置
4年後 1189 奥州藤原へ
1192 征夷大将軍
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2018-12-23 14:25
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