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おしん 198~200回 太平洋戦争編

(1983日)

昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件により日華事変が始まった。
近衛首相が言った「事変不拡大」との新聞記事に竜三は信頼していた。


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ひさの家に不審者がいるとの噂で、おしんは確認しにいった。
浜で浩太と目が合った。が、浩太は逃げた。
追いついたが、浩太は何も語らず去った。

6年間の監獄での拷問で右足が不自由になり、
「社会主義を捨てます」と誓い転向し自由の身となった。
ひさによれば、転向を恥じ心を閉ざし誰にも会いたくないとのことだった。


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12月になり南京が陥落。本土でも戦勝を祝い提灯行列に竜三や子どもたちも参加した。
俊作(中村雅俊)と出会い戦争を憎んでいたおしんだったが、勝利を喜ぶ。
年の暮れとなり、田倉家に陸軍の偉いさんが来た。


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竜三の次兄の亀次郎だった。
佐賀の清から様子を見てきて欲しいとのことだった。
中学3年の雄に陸軍士官学校を勧めた。
竜三には軍に大量の魚を納入する話だった。


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次の日、竜三は店を休み、亀次郎と会うことにした。
が、おしんは久しぶりに仕入れに行き、御用聞きに回り、そして配達した。
おしんが自転車に乗れないので雄が手伝った。
冬休みに入っていたので、希望も初子もフルに手伝った。
が、仁は遊びに忙しかった。


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NHKオンデマンド おしん 198~200回 太平洋戦争編


晩になり竜三が帰ってきた。
亀次郎や関係者と飲んだようだった。
おしんは消極的だったが、竜三は乗り気だった。

これまで、羅紗問屋だったのを不景気で子供服の製造販売に切り替え、
成功するものと思われたが、関東大震災で全てを失った。
佐賀の実家に戻り、有明海の干拓に4年間力を注いだが、これも台風で失った。

5人の子を育てていくため、竜三に迷いはなかった。





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(2019/12/12 0:29)
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いだてん~東京オリムピック噺~ (46)「炎のランナー」

(2019日)

昭和39年(1964)東京五輪、2か月前だった。

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女子バレー主将の河西昌枝は父が危篤だったが、
看取らずに練習に戻ってきた。


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田畑は組織委員会に乗り込んだ。
沖縄での聖火の際、日の丸を掲げること、
また、最終ランナーに原爆投下日の広島で産まれた坂井義則にしろと主張した。
そして、
「アメリカに阿って原爆の憎しみを口にし得ない者は、世界平和に背を向ける卑怯者」
と自分の発言として記者に書かせた。


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ギリシャから出発して18日後の9月7日、聖火が沖縄に到着。
オリンピック開催の33日前だった。
カメラの前で米軍は認めざるを得なかった。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (46)「炎のランナー」

坂井義則はナーバスになっていた。
自分が聖火ランナーとなったのが、出身地と誕生日だったから当然だった。
が、日本人にとってかけがえのない意味があった。





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ETV特集 追悼 中村哲さん「武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~」 [映像-他]

(2016日)

2016年9月10日放送分。

砂漠の中、医師として病人を診察しても水もなければ、どうしようもなかった。
用水路を作ることが10万人の命になると考え白衣を脱いだ。
素人だったが独学で実行し、砂漠を緑の大地へと変えた。
60万人の命となったが、それをアフガン全域へ拡げるため人材育成に取り掛かった。

志半ばで銃弾に倒れられたのでしょうが、
私には分かりませんが、中村哲さんが作った道は継続されるのでしょう。

バプテストの中村哲さんは医師でアフガニスタンという地へ入って活動された。

聖句を語る機会は無かったのでしょうが、「生き方」と「死に方」で示された。
心より敬意を表しますとともに、学びを与えて下さったこと感謝いたします。


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NHKオンデマンド ETV特集 追悼 中村哲さん「武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~」





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サバイバルファミリー [映画]

(2017)


楽しいが無理ある作品。
まず、電気だけでなく、電池が使ええない。車のバッテリーもアウト。
水道もガスもダメ。
その状況でどうするか。

リアリティーを追求した社会派ではなく、完全娯楽作品。
暇つぶしに笑うことのできる作品。





----以下、ネタバレ

ロウソクとマッチやライターは必需品でしょう。
暗いトンネルも大丈夫なはず。

岡山あたりから西へ行くのに川が邪魔するとはよく分かりません。


町中がゴミだらけのシーンはCGなのでしょうが、
よくできていると感激しました。






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おしん 195~197回 太平洋戦争編

(1983日)

昭和10年(1935)4月、仁と希望が小学校に通うこととなり、
おしんは、カバンなど所持品に名前を書いてあげた。
迷ったが、希望には、「ヤシロノゾミ」と書いた。


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苗字が違っても、兄弟であることを雄も仁も確認した。


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母の加代、祖父母の清太郎とみのが眠る墓に連れて行った。
仁は、仲良くしますと誓う。

ある時、希望が親のことで虐められ家出したこともあったが、
無事を喜び乗り越え、月日が経った。


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昭和11年(1936)2月26日、おしんの4度目の出産となった。
女の子だった。禎(てい)と竜三が決めていた。
禎だけが誕生日を与えられた。

東京での事件のことは聞いてはいたが、
5人の子を養っていかなければならなかった。


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昭和13年(1938)となり、初子は小学校を卒業すると共に、3年の年季が明けることとなった。
禎が産まれ自分がいらなくなったと思った初子は帰るつもりだった。
おしんと竜三にとっては、生活費のこともあるが、
初子がいてくれれば助かるが、初子の気持ちが大事だった。

この状況下、雄が初子に家にいて欲しいと説得する。
本当の妹と思えたこと、また山形に戻っても奉公に出されることを理解していたからだった。


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NHKオンデマンド おしん 195~197回 太平洋戦争編


雄は、弟2人を巻き込み、初子の帰郷を撤回させた。
竜三もおしんも、喜んだ。





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(2019/12/8 0:18)
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太平記 第11回 楠木立つ

(1991日)

元弘元年(1331)9月、笠置山に籠る後醍醐天皇に六波羅軍が敗れたとの報が鎌倉に届いた。


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(長崎高資 、 、 、覚海尼、北条高時)

内管領の長崎高資は、軍の陣容案を第14代執権だった高時に報告に来た。
高時は高資の父長崎円喜への暗殺に失敗していたが、
執権職を退き、母のいる寺に籠ったこともあり手打ちがなされたのでしょう。

高資の案には、父が亡くなったばかりで喪中の足利高氏も含めていた。


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第16代執権の北条守時は妹婿である足利高氏宅を訪ね、
何もできなかったことを詫びた。


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弟の直義が登子に「何故、兄は断らなかったのか」と聞いてきたと報告。
高氏は、行くだけで矢を放つこともなく帰ってくると答えた。


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その頃、後醍醐天皇の側近千種忠顕が、諸将が来ないと報告。


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(後醍醐天皇、万里小路藤房)

3日で来れるのに来ない楠木正成に藤房はキレていた。


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天皇は万里小路藤房に勅使として楠木正成を呼んでまいれと命じた。が、正成は断った。
藤房はわざわざ勅使で正成を頼った帝のお気持ちを想い涙で説得する。
それでも、正成は引き受けず、とりあえず近くの寺で泊まってもらうことにした。


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TSUTAYA 太平記 完全版 


その晩、妻の久子は、「名誉なことではありませんか、引き受けなされ」と
嫁ぐ際に植えた思い入れのある柿の木を斧で切ろうとし、正成の決断を促した。
久子にすれば、すでに正成の弟の正季や郎党200名が向かっており、無駄死にさせたくもなかった。

ここにきて、楠木正成は立つことを決断した。







(2019/12/7 0:46)
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BS世界のドキュメンタリー 「IS 狂気の内幕」 [映像-他]

(2018仏)

リビアでIS幹部だった者の家からハードディスクと妻のスマフォが見つかる。

多くの動画が保存されており、公開処刑や、車での移動時に検問で射殺するシーンもあった。

また、自爆テロの教育マニュアルがあり、誰でも簡単に実行できるようだ。
車の種類と火薬量でどの程度の破壊力があるか説明もする。

IS内では結婚と離婚が繰り返されていること、
赤ちゃんを抱いていると見せかけて自爆テロを起こそうと考えている女性など、
事実そのものが明らかにされた。


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BS世界のドキュメンタリー 「IS 狂気の内幕」






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おしん 192~194回 太平洋戦争編

(1983日)

昭和6年(1931)9月の満洲事変で竜三が興奮していた頃、
浩太はモスクワへ向かおうとしていた。
叔母だった神山ひさ宅に寄り、おしんから加代の墓のことを聞く。
が、翌朝、墓の側で特高警察に捕まった。
おしんは、加代の忘れ形見である希望を見せるために寄ったが、
どうすることもできなかった。


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おしんが、墓から戻ると、ひさが来ていた。
特高警察が家に来て、探し回ったとのことだった。

竜三はモスクワへ行く前に日本で捕まった方が良かったのやもしれないと言う。
労働者や小作の立場で運動をし続けた浩太だった。


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3年半が過ぎ、昭和10年(1935)2月となる。
健が訪ねてきた。9歳の初子を連れていた。遠い親戚の子だった。
山形の小作の娘で凶作のため、3年の年季50円で引き取ったのを
大阪の遊郭へ奉公に出すつもりで、その前に伊勢に寄ったとのことだった。


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初子は朝、勝手にご飯とみそ汁の準備をしていた。
ふとんもたたみ、自分で仕事を見つけ先に行っていた。

おしんは、幼い頃の自分と重ね、また亡くした長女の愛とも重ね、
健に初子を引き取ることを独断で伝えた。
さすがに健に竜三の確認を求められたが、竜三は少し躊躇するも、
おしんの熱意に快諾する。


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NHKオンデマンド おしん 192~194回 太平洋戦争編


長男の雄も手伝いが減るので喜び、仁も希望も姉ができたと喜んだ。





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徳川慶喜 第25回 将軍後見職

(1998日)

文久2年(1862)5月、勅使が江戸へ下向することが決まった。

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(松平春嶽)

老中板倉勝静は、越前福井前藩主の松平春嶽に幕政参与を申し出た。
勅使に言われて飲まされるのではなく、自ら先に決める必要があった。

春嶽は引き受けたが、一橋慶喜を将軍後見職にと推した。
が、将軍家茂は17歳になったので、その必要はないとしたが、
春嶽がしつこかったので、持ち帰ることにした。


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(和宮付女官 重子 , 上臈 高部)

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(御年寄 瀧山)

瀧山は、和宮が御台所として振舞ってほしいと重子に言ったが、
重子は、事前の約束とは違い文書もあるはずだとした。
が、瀧山も重子も譲らなかった。


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老中会議で、一橋慶喜を養子として水戸藩に戻し、
幕政から遠ざけようという意見が出された。


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6月、勅使の大原が来た。将軍の前まで来て、
慶喜の将軍後見職、春嶽の大老、攘夷を10年以内に実現を命じた。


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(板倉勝静 脇坂安宅)

老中2人が大原を訪ね、のらりくらりと勅使の要求をかわそうとした。
が、大原は、薩摩藩の大久保一蔵に授けられた老中を切り殺す合図を言おうとした。

その瞬間、察知した板倉は一橋慶喜の将軍後見職を承知する。



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徳川慶喜 第25回 将軍後見職


その後、板倉が慶喜を説得し、慶喜は家茂に謁見。
将軍後見職となる。



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いだてん~東京オリムピック噺~ (45)「火の鳥」

(2019日)

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昭和39年(1964)の東京五輪のテーマソング『東京五輪音頭』の録音権が開放されたため、坂本九や北島三郎など各社で発売したが、三波春夫版が130万枚に至ったそうだ。


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田畑が事務総長を辞め鬱屈していたが、自宅に仲間が訪れ、
裏で会議が行われるようになった。ポスターもまず田畑が確認した。


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女子バレーの練習が止まった。
オリンピックまでの2年を練習に集中することの是非に監督は悩んでいた。
批判の手紙が殺到したそうだ。
田畑は家族で訪ね、説得する。



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金栗四三は聖火ランナーを希望し、樺太を含めた日本全国を走った足跡を田畑に届け、
これが、聖火を4つに分け全都道府県を走る企画へとなる。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (45)「火の鳥」


岩田らの期待を超えて、
航空自衛隊は、高度を変えて五輪を描きましょう、と言ってくれた。







(2019/12/03 0:05)
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