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麒麟がくる (32)「反撃の二百挺(ちょう)」

(2020日)

元亀元年(1570)4月末、越前朝倉攻めで妹婿浅井長政の裏切りにより、
金ケ崎から京に戻った。


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光秀は将軍義昭に報告するが、4日前に知った浅井の裏切りを、
義昭や摂津は3日前に知っていた。
幕府政所と浅井が繋がっていることを追求しようとするも、摂津はトボケ立ち去る。


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そこへ信長が挨拶に来たとの報が入り、義昭は無事を満面の笑みで出迎えた。
信長から「殿中御掟9か条」と「追加5箇条」で制限を受けていてのことだった。
まだ、三好3人衆も生きており、信長が死ぬのも不都合だったようだ。


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光秀が自宅に戻ると、美濃から妻子が来ていた。
なんと母はまだご健在だった。勝手に他界したとしたが間違いであった。
美濃に残ったようである。


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光秀と秀吉は鉄砲を買いに堺の豪商今井宗久を訪ねた。
250挺を売ったばかりの宗久を恫喝して買主を聞き出そうとした秀吉を制し、
顕本寺の茶会に行くことになった。


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そこには、宗久は直接は言わなかったが、買主である筒井順慶がいた。
興福寺の僧侶だったが、松永久秀とは筒井城を追われ奪還するなど敵対関係にあった。
なんと、駒もそこにいた。

鉄炮200挺の条件に、光秀には信長への松永同様の目通り、駒様へも将軍へ同様のお願いをした。


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6月28日姉川の戦い。
織田20000 徳川5000 対 浅井8000 朝倉10000
勝利、浅井朝倉を帰らせた。鉄炮二百挺は大きかった。

家康は、義昭が信玄に上洛を迫っているといい、
戦の準備で三河に帰ると光秀に語る。


信長が負けたと勘違いした四国阿波の三好三人衆13000が、7月19日摂津へ向かった。
その動きに、かつての美濃の斎藤道三の孫にあたる竜興も加わる。
現在の大阪市を中心に双方が陣を構える。
8月20日、信長は岐阜城を立った。


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総大将は義昭だった。摂津海老江城で鼓舞する。


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三好三人衆が信長に和議を申し入れたが拒否された日。
大坂本願寺が鐘を鳴らし、9月12日挙兵
顕如が浅井に手紙を出す。かつては本願寺と朝倉は対立していた。
同日に、浅井、朝倉、六角父子も挙兵。



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NHKオンデマンド 麒麟がくる (32)「反撃の二百挺(ちょう)」


朝倉義景は比叡山延暦寺へ挨拶に行った。
公称5万の僧兵を味方にし、信長を潰すことを考えた。
もちろん手ぶらではなかった。





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