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青天を衝(つ)け (14)「栄一と運命の主君」

(2021日)


文久4年(1864)、平岡に一橋家への仕官を勧められるも即答せず、持ち帰った。
喜作は攘夷倒幕の志を完結させるため死を覚悟するも栄一の説得に納得する。
投獄中の長七郎を救う手掛かりになるかもしれなかった。


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2人は、平岡には条件付きでの仕官を要求する。
慶喜へ謁見と建白を望んだ。


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(酒井忠績 水野忠精)

その頃、孝明天皇が京で参与会議を行うこととしたが、
薩摩の意向であり、警戒した幕府の要人も上京していた。

長州に横浜鎖港を飲まされ、8月18日の政変で長州が去り、
薩摩に鎖港撤回とされるなら、既に西欧に使節を派遣もしておる中、
幕府が薩長に振り回されることになる。
老中の2人は、あくまで鎖港とすべしと主張した。


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(松平春嶽、大久保一蔵、島津久光、伊達宗城)

久光は、横浜鎖港撤回が当然かのように主張するが、
半年前まで攘夷を口にしていたことを無かったかのように振舞った。
文久3年8月までの長州の影響力で幕府は鎖港を約束したことを久光は姑息を言い放つ。
さすがに慶喜も外様ふぜいの久光にキレはじめる。


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栄一と喜作の2人の要求に平岡は、遠乗りの際に追いかけての謁見を提案した。
翌日、2人は約1㎞走った。


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栄一は、徳川はオワコンだと言った。
が、慶喜は明日来いと言ってくれた。


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初出勤だった。


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質素な住まいを用意してくれたが、2人とっては狭かった。
既に所持金はなく、側用人の猪飼勝三郎に生活資金を借り助かる。


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将軍家茂が酒を振る舞った。
横浜鎖港の撤回を中川宮が言ったと久光から聞いた慶喜は中川宮へ確認することにした。


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翌2月16日、慶喜は春嶽、宗城、久光と共に中川宮邸を訪ねた。
その席で、3人を大愚物と語り、中川宮の台所が薩摩であることを指摘。
幕府に乗り換えるよう勧める。
ここで中川宮を刺して自害する覚悟を見せて、横浜鎖港を貫くと天子様に伝えるよう恫喝した。

こうして参与会議は崩壊。横浜鎖港を使って幕末政治の主導権を取り戻した。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


慶喜は、「快なり」と亡き父斉昭の言葉を口にした。






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