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青天を衝(つ)け (16)「恩人暗殺」

(2021日)


文久4年(1864)、春、栄一と喜作は人選御用となり関東に向かった。
見送りに来た円四郎は、武士になったが百姓だったことを忘れるな、と言う。
無理に死ぬことはない、という意だった。


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11年前、江戸に来た生意気なガキが「江戸の町は商いでできている」と言ったことを覚えていた。
侍は米や金を産むことができないとし、栄一には経済を頼む、という遺言となった。


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その頃、水戸では天狗党の挙兵に対し、どうするか揉めていた。
諸生党の市川三左衛門が怒気を強め征伐することとなる。
が、藩主慶篤は母吉子に叱られ武田耕雲斎に任せることとなった。
諸生党は親幕府で斉昭や藤田東湖ら改革派と争っていた。


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血洗島では尾高惇忠が捕まり弟の平九郎も連れていかれることになった。
惇忠は天狗党の呼びかけに大義が無いとし応じなかったが、
証拠が無くともおかまいなしだった。


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(土方歳三)

6月5日、池田屋事件が起こる。
尊王攘夷過激派は中川宮や慶喜の命を狙っていた。
孝明天皇を長州へ連れ去ることも計画の内だったようだ。


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(江幡広光 林忠五郎)

新撰組の池田屋襲撃が慶喜の命であるとの噂が立ち、
攘夷に固まった水戸藩士の二人は平岡のセイだとした。


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(真田範之助)

栄一と喜作は一橋家への仕官を真田たちにも勧めにきた。
真田はしばらく意味が分からなかった。
高崎城奪取・横浜焼き討ち計画のかつての仲間だったが、
裏切り者扱いとなり、2人は真田に斬る価値も無いとされた。


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平九郎は家に戻ったが、腕を不自由にされたようだ。
人の自由や尊厳を気にしないのが根深い日本の伝統文化なのでしょう。


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6月16日、41歳だった。
死にたくないと繰り返した。この時点では心残りが多すぎだった。


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慶喜は最も信頼する存在を喪った。
しかも、それが水戸藩士によるものであり悲しみは深かった。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


川村恵十郎は林忠五郎と江幡広光を殺したものの自らも負傷した。
弟の川村敬三(のりみつ)は後に弘前バンドのメソジストのクリスチャンとなるが、
恵十郎は日光東照宮の禰宜となる。(写真)

栄一の孫に渋沢敬三がいるが、命名は嫡男の篤二ではなく栄一だとも十分に考えられるが、恩人である平岡と川村との関係で、そのまんまの円四郎や恵十郎を避け、少しずらして読み方を変えて敬三(けいぞう)としたのやもしれません。(早死、神職、クリスチャンは嫌)


----追加

しかも、好きな字「敬」に栄一から123と連番となるので決まりだった。



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