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鎌倉殿の13人 (29)「ままならぬ玉」

(2022日)


正治2年(1200)1月、梶原景時一族は滅ぼされた。


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義時は景時から預かった袋を善児に渡した。
中には義時の兄宗時を殺害し奪った小袋が入っていた。
義時は中を見ておらず、天は善児に味方した。


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2月、三浦義澄他界。


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4月、安達盛長永眠。
昨年に頼朝の侍女三幡死去に際し乳母夫の中原親能が出家。鎌倉を離れており、
昨年4月の13人の合議制も1年で9人となってしまった。


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時政が国主となり従五位下を賜った。
政子が頼家に働きかけた結果だった。


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頼家は会議に割り込み、即断即決、綺麗に分割。


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その頃、念仏さえ唱えれば何をしてもいいとする新興宗教の坊主に対して、
頼家は斬り捨てようとするも、頼家の近習となっていた義時の弟時連の諫言で、命は助けてやった。


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頼家の正室つつじが男子を産み善哉と名付けられた。
義時は乳母夫に三浦義村とした。頼朝の意ということにしていた。


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善哉の方へ入りびたる頼家だったが、
比企能員の娘せつは、頼家の長男一幡を授かっていたが、
善哉が嫡男でいいと比企の利益を捨てる爆弾発言をし頼家を驚かせた。


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逆となり頼家は一幡を嫡男とすることにする。
蹴鞠に逃げることをやめ、鼓判官平知康をお役御免にした。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



時政とりくから鎌倉殿への呪詛を頼まれていた阿野全成だったが、
頼家の改心を確認し中止とした。
御所の下に置いた呪をかけた頼家を表す木製の人形を回収したはずだった。





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