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鎌倉殿の13人 (33)「修善寺」

(2022日)



建仁3年(1203)10月8日、千幡の元服の儀式が盛大に行われ、
頼家は修善寺へ向かった。


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千幡から実朝となり、頼朝よりお守りとしていたドクロを受けとる。
頼朝が落馬、頼家が追放となろうが関係なかった。翌9日より政務開始となる。


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時政が執権別当となり取り仕切った。
滅ぼした比企の武蔵を時政は頂くことにした。


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時政のやり口により北条への不満が溜っていると三浦義村が教えてくれた。


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時政の娘婿平賀朝雅が実朝の正室を迎えるべく朝廷へ働きかけた。


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建仁4年正月、実朝の読書始の儀式が行われた。
儒学の講義を行ったのは、後鳥羽上皇の側近源仲章だった。
又、和歌も教えることとなる。
乳母の実衣が実朝に和歌を教えていた政子一派の三善康信を追い払う。


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頼家が上皇に北条追討の院宣を求めたことが発覚。
もはや討ち取るしかなく、義時は決断。
政子には事後報告とすることにした。


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義時は、善児宅で兄宗時の遺品を見つける。
梶原景時から預かった善児への袋の中身がこれだったのだと知る。
が、善児は義時の祖父伊東祐親の命で動いていただけであり、
責めることはできないと呟く。


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和田義盛宅に運慶がいた。15年ぶりの再会だった。
義時に悪い顔になったと言う。
が、悩んでいること迷いがあることが救いであるとする。


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修善寺にて猿楽を楽しんでいた頼家だったが、
善児と斬り合うこととなる。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


善児に育てられたトウが、頼家と善児に止めを刺した。
かつて同じ伊豆修善寺で源範頼を善児が殺めたがその時に殺された夫婦の娘だった。
その殺害現場を目撃したことで善児が引き取り、父を殺したようだ。





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