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いだてん~東京オリムピック噺~ (42)「東京流れ者」

(2019日)

昭和39年(1964)の東京五輪に向けて、聖火リレー精査隊がアテネからシンガポールまで車2台で旅行気分で完走するつもりだったのでしょう。


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タクラマカン砂漠を通ることとなるが、ウィグル語で「死の世界」を意味したようだ。


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田畑から選手たちの宿泊施設を埼玉ではなく代々木にする交渉を頼まれた平沢和重は、アメリカ大使館に向かった。

後日、60億を提示された。


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5年後には返還されるものを60億出すことに池田首相も反対していたが、
田畑は直談判した。
昭和34年(1959)の皇太子成婚パレード需要により白黒テレビが前年100万台の普及だったのが、1週間前には200万台になったそうだ。

よって1964年の東京五輪でカラーテレビ1台60万が1万台売れれば60億なので、
60億で代々木を取り戻しNHK放送局を作って放送することにすれば、
経済効果を考えれば安い買い物だと池田を説得した。


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躍動的なポスター第2弾だった。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (42)「東京流れ者」


小松金治のオリンピックネタの落語を聞いて、
田畑は、小松が広告塔に適任と岩田幸彰を向かわせた。





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