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太平記 第39回~第41回

(1991日)


延元2年/建武4年(1337)8月、北畠顕家は義良親王を奉じて鎌倉へ進軍。
12月、鎌倉陥落。義詮は逃走。1月に顕家は京都を目指した。
美濃大垣で北朝方に勝ったものの、越前の新田義貞と合流せず、伊勢に向かった。
父の北畠親房は叱る。理由を義貞と京都を奪還しても尊氏と同じ轍となるとした。
顕家の軍勢には、義貞の息子や北条時行もおり諸説あるようだ。
顕家は大和へ向かい、その後、和泉で高師直の軍勢に敗れる。

新田義貞も8月、足利方の軍勢の矢に倒れる。後醍醐帝は顕家と義貞の死を惜しまれた。
尊氏らは宴会となる。

一方、藤夜叉の遺児を直義が養子として育てることとなり、元服し直冬となる。

暦応元年(1338) 光明天皇の宣下により、尊氏は征夷大将軍となるが、その席に直義も同席する。
翌年、後醍醐天皇が崩御され、知らせを受けた尊氏は寺院を建立すると言い出す。
直義らは反対するが、血みどろの戦いを終わらせるには必要だと情理で説得する。

頭の固い直義を支持するグループと、尊氏を支持する略奪や拉致して側室を作る高師直、放火も平気な佐々木道誉らと争いが始まっていた。


(39)「顕家散る」
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(40)「義貞の最期」
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(41)「帝崩御」
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NHKオンデマンド 太平記






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