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徳川慶喜 第14回 押しかけ登城

(1998日)

安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が調印となった。
全権の岩瀬や井上が「あっさり」決めてしまったので、
大老の井伊直弼は失意と怒りであったのだろうが、杉さまは顔に出さない。


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6月23日、慶喜が登城し、直弼を責め立てた。
東海道と中山道の2経路で朝廷に直弼は文書で報告した。
慶喜は勅許無しの調印でしかも、「宿継奉書」という手段での事後報告を責めたが、
直弼は、素早い報告で次に老中に行かせるとした。
また、将軍継嗣で紀伊の幼い慶福となることを伝え、この場で慶喜の祝意を引き出した。
慶喜から将軍となる意思は無いと自ら語らせることに成功した直弼は、
「才はあるが、お若い」と半笑いを浮かべる。


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(太田資始、間部詮勝、松平乗全)

直弼は、23日、堀田正睦と松平忠固を罷免し、3人を老中とした。
堀田は一橋派を排除するという分脈だが理由を無断勅許としたようだ。
松平忠固は南紀派(または中立)だったが、会議を調印にリードした主犯だった。
が、忠固の排除は一橋派の越前藩主松平慶永にもわざわざ出向き伝えていたようだ。
安政の大獄の始まりだった。


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(尾張藩主徳川喜勝 徳川斉昭 水戸藩主徳川慶篤)

翌24日、譜代の井伊直弼とすれば、親藩の連中が口出ししにきた。


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(越前福井藩主松平慶永)

慶永は御三卿田安家出身だったが、福井藩の養子となったため
御三家とは格下扱いで別室での待機となった。


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直弼は、徳川3人衆を昼飯抜きで待たせ、会うことにする。
神妙な態度で軽くあしらった。さすが杉良太郎と言わざるを得ない。


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久世広周は、松平慶永の応対だった。
私にとっては、水戸黄門の熱い格さんだったので、クールな久世に苦笑する。


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徳川慶喜 第14回 押しかけ登城

左  脇坂安宅、内藤信親、太田資始、
中央 井伊直弼
右  松平乗全、間部詮勝、久世広周


押しかけ登城した連中の処罰を直弼は閣議で一方的に伝えた。


徳川斉昭、謹慎。
徳川慶篤、登城停止。
徳川慶喜、登場停止。
徳川慶勝、隠居謹慎。
松平慶永、隠居謹慎。


井伊直弼、この時に、すでに覚悟はしていたのでしょう。





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