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土曜ドラマ 足尾から来た女 (後編)

(2014日)

明治40年(1907)谷中村の実家が国の強制執行で取り壊される。
指揮したのは、サチ(尾野真千子)の兄・信吉(岡田義徳)だった。

新吉は、田中正造(柄本明)と共に闘っていたが、
井戸水を飲んで42才で死んだ母のことを忘れ、
県側についた。父と暮らすためでもあった。
妹のサチを福田英子の下で家政婦となる際、スパイにさせた。

田中正造は、裏切った新吉を杖でぶつが、サチは泣いて止める。

福田英子は足尾鉱毒問題に力を注いだ。
無断で出ていった行き場の無いサチを連れ戻す。


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明治41年、釧路を去った石川啄木と知り合う。
自殺を止めた経緯があったが、与謝野晶子宅へ福田と共に向かった際に再会する。

啄木との恋も束の間、
出獄し福田宅で同居することになった石川三四郎(北村有起哉)の目から逃げることとなる。



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足尾から来た女 (後編)


再び無断で英子から去ったサチだったが、
目の前に偶然にも、原敬の姿があった。

後に平民宰相と言われる原敬だったが、
内務大臣としてサチの実家である谷中村を
鉱毒問題から治水問題にすり替えてダムの底に沈める責任者だった。


見応えありましたね。




先に、時代背景を↓の草原克芳氏の著作『批評・啓蒙・プロパガンダ  黒岩涙香と萬朝報の時代』を読むとこの作品の面白さが倍増します。

今回、石川三四郎は酷く扱われていますが、実際にこういう話があったのなら最低な人間ですが、
簡単に、どういうことをやってきた人間かは書かれています。


サンプル


『萬朝報(よろずちょうほう)』という黒岩涙香の新聞社である
朝報社で、論説委員として幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三といった面々が記事を書いていた。
そこで石川三四郎も働いていた。

日露戦争に関して、非戦論だった社論だったが、
1903年に突然、肯定した記事を載せたのを機に、
幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三の3人が朝報社を去ることにした。

そして、幸徳秋水と堺利彦が平民社を作って『平民新聞』を発行するが、
石川三四郎もここに入った。

そこで非戦論や社会主義を主張する。

サチは自分の密偵としての報告で三四郎が捕まったと自分を責めたが、
石川の言論で、すでに確定事項だった。

が、石川三四郎は"強運"の持ち主で、この後に禁固で留置されることになるものの、
幸徳事件で24名が死刑判決となり12名が執行されるが、巻き込まれずに済んだ。
堺利彦も赤旗事件で獄中にいたので助かった。

資本主義の負の面を直視したことで社会主義を理想とするのも無理はなかったが、
社会主義は衰退することになる。

かろうじて、キリスト者だった福田英子と石川三四郎は、
神の愛により生かされたのかもしれません。
が、罪による罰だったのやもしれません。





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