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青天を衝(つ)け (8)「栄一の祝言」

(2021日)


安政5年(1858)となり、喜作と栄一が千代をめぐり勝負した。


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喜作は勝ったものの二人の想いを尊重した。


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老中首座の堀田正睦が勅許を求め京へ向かい、大金をバラまいたが、
岩倉具視ら88名の抗議により孝明天皇は認めず、堀田は手ぶらで帰った。

堀田の留守中に老中の松平忠固、紀州藩家老水野忠央ら南紀派の工作もあり
将軍家定は井伊直弼を大老にした。
一橋派は反対したが、決まったことだった。


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直弼は会議で次は紀州の徳川慶福と家定の意を語るも、
老中首座堀田正睦(備中守)は反対。
時勢柄、年長にして賢明であることを条件とし慶喜を推すが、
直弼は、「びっちゅー」と制した。


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一橋派だった川路聖謨は西丸留守居となり名誉職ではあったが左遷となる。


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安政5年6月19日、日米修好通商条約締結。
井伊直弼は勅許優先だったが、現場判断も許容していたことを言質として
岩瀬忠震・井上清直が早々と著名。
直弼は「無念の極み」だと残した。大老辞任も考えたが政敵と闘うことにした。


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慶喜は登城し、違勅と宿継奉書を問うた。
直弼は平身低頭「恐れ入り奉ります」を繰り返した。
将軍継嗣の問題で慶福ではないかと慶喜は口にし喜んでみせ直弼を安堵させる。


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(慶篤、斉昭、尾張藩主慶恕)

翌日、斉昭らも抗議する。
倒閣運動だったが、将軍継嗣問題で慶喜が降りたと知ると
さすがにショックを隠しきれなかった。
松平慶永が別室にいるはずで「呼べ」と怒りを放出する。


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13歳の紀州藩主慶福に決まった。


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家定は慶福の従兄であり、慶喜は家康まで遡らなければならない他人だった。
この後、直弼に一橋派の処分を厳命し他界した。

不時登城で、慶永と慶恕に隠居。
慶喜と慶篤に登城停止。斉昭に「急度慎」とした。


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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


その年、千代は渋沢家に入ることとなった。





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