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青天を衝(つ)け (11)「横濱焼き討ち計画」

(2021日)


文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外にて、6名が老中安藤信正を襲撃。
安藤は軽傷、6名は他界。幕府は関係者を捜索していた。


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参加するはずだった尾高長七郎は親族の説得で隠れていたが、
江戸に向かわずにいられなかった。
が、栄一が止め、情勢を説明、無駄死にだと諭した。
仲間の河野顕三が死に自分が生きていることに長七郎は許せなかった。
栄一は4歳下だったが冷静に受け止めた。

この頃から高崎城襲撃、横浜焼き討ち計画を練っていた。


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薩摩藩国父の島津久光が1000人の率兵上京で幕末政治の主導権を握ろうとした。
6月、勅諚を得て江戸に来た久光は老中を脅し文久の改革が始まる。

慶喜は7月、将軍後見職となり家茂から丁寧に任された。
老中たちは苦々しく慶喜を睨む。


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松平春嶽は政事総裁職となりフィクサーの久光に感謝したが、
由緒ある慶喜としては面白くなく、まして「攘夷」と口にする久光に信用が置けなかった。


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高崎城襲撃、横濱焼き討ち計画は進んでいた。
諸外国を激怒させ倒幕に繋げるという戦略だった。
平九郎も参加を希望したが、惇忠は家を守らせることにする。

襲撃を翌年11月とする。


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文久3年(1863)となり、和宮降嫁に力を貸した者や開国派が天誅の対象となった。
慶喜が東本願寺に構えていると、攘夷派が土産を送ってくる。


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三条実美は攘夷の日時の確定を迫った。
慶喜と春嶽は飲めないので渋ると、三条が勅諚を笠にキレる。


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武田耕雲斎と密談していたが、平岡円四郎が聞き耳を立てていた。
勘定方を断り一橋家に戻ってきた。


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その頃、栄一と喜作は60人分の武器を購入する。


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藤田東湖の息子小四郎は父の死後、腐っていたが、
栄一の言により我を取り戻した。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


長男市太郎を喪ったが、長女を得るも、栄一は父に勘当してくれと頼んだ。
栄一のことを理解した千代も頭を下げた。





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