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鎌倉殿の13人 (48)「報いの時」(最終回)

(2022日)


承久3年(1221)5月15日、京都守護伊賀光季が藤原秀康に討たれ始まった。


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大江広元と三好康信が京へ攻め入ることを進言。
諸国の軍勢が集う前に先に泰時が総大将として18騎にて出陣する。


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6月5日、泰時を総大将とした軍勢は、木曽川で藤原秀康勢を斥ける。
西へ向かい、宇治川で対峙、泰時は筏を作らせ川を渡り討つ。


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秀康と三浦義村の弟胤義が後鳥羽上皇自らの出陣を要請。
上皇は武勇にも優れていたが、藤原兼子の説得に従う。
上皇は隠岐へ移ることとなった。


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京で、時房と泰時が、りくと再会する。元気にしていた。


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運慶を縛ったが、解放する。


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義時が、自分と神仏を融合させた像を作るよう依頼した結果だった。


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体調を崩し医者に診てもらうと毒を盛られたとのことだった。
のえが認める。その毒は義村が用意したものだった。


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義村は裏切りの証言を取られ、義時の酒を断れなくなる。
毒を飲んだと思い込み、死ぬことを承知で白状。
が、義時は義村を許し泰時を支えてくれるよう頼む。


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平盛綱が生きていた。幼い頃に川で八重の命と引き換えに助かり北条に仕えた鶴丸だったが、宇治川でも死ななかった。泰時を支えた人生だったが、曽孫となる長崎円喜が、得宗家も執権も従える実力者に成長、鎌倉時代が終えることなる。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



元仁元年(1224)6月13日、頼朝の死後、死んだ人間を口にした。
梶原景時、阿野全成、比企能員、仁田忠常、源頼家、畠山重忠、
稲毛重成、平賀朝雅、和田義盛、源仲章、源実朝、公暁、阿野時元
彼ら13人の死に関わり顔が悪くなったと苦笑する。運慶を思い出す。

が、頼家は政子には病死ということにしていた嘘が明らかとなってしまう。
真相を話し、政子は納得する。

義時は、倒れ、政子に薬を取ってくれるよう頼むも、
これ以上、手を汚してはならないと、政子は薬を床に捨てた。
それでも義時が飲もうとするも、政子は遮った。

義時は、妻と姉に殺された。






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