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おしん 179~181回 自立編

(1983日)

昭和2年(1927)初秋、「田倉鮮魚」を開き、1年半
昭和4年(1929)春、雄の小学校入学となった。


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おしんは山形の母に雄の入学式に来てもらいたかった。
小学校に通っていなかった母と娘にとっては、感極まる特別の日だった。


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ふじは畑仕事も難しくなり、息子夫婦から露骨に疎まれていた。
兄の庄治から預かってくれと手紙がきた日、おしんの妊娠が発覚。
竜三は、「おしんのためにいてください」と頭を下げた。
迷惑かけることになると一旦断ったが、おしんと竜三は食い下がり、
ふじは娘夫婦の優しさに感動する。


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NHKオンデマンド おしん 179~181回 自立編

秋、男の子が生まれた。仁(ひとし)と名付けた。
その日、ふじが倒れ、医者に来てもらい翌日名古屋の大病院で検査。
白血病と分かる。そして起きれなくなった。

網元のひさが来てくれ、家の中の世話を全てしてくれた。
おしんに母の病を竜三が伝えたのは、産後の回復後だった。





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アナザーストーリーズ 運命の分岐点  「落語を救った男たち 天才現る!古今亭志ん朝の衝撃」 [映像-他]

(2019日)

大河『いだてん』の志ん生が倒れたシーンを思い出す。
病院のベッドで酒を飲んでいたが、落語界の危機だったとは知らなかった。

息子の志ん朝を多数の先輩を差し置いて真打ちにさせる。
怒った談志たち先輩も少し後に真打ちにする。

志ん朝に反発する先輩たちも腕をあげ、落語界が生き返った。

志ん朝は報酬度外視で仕事を受けたエピソードもあり、
落語界全体を牽引していたのでしょう。

最近になって、ようやく深さが分かり始めてきたのかもしれません。


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アナザーストーリーズ 運命の分岐点  「落語を救った男たち 天才現る!古今亭志ん朝の衝撃」





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アナザーストーリーズ 運命の分岐点 「女子プロレス 熱狂の頂点 クラッシュギャルズを求めた少女たち」 [映像-他]

(2019日)

1983年にデビューしたクラッシュギャルズ。
それまでは「華麗なブロレス」だったそうだ。
マッハ文朱やビューティーベアが活躍していたが、引退。
80年代でエンターテイメントが多様化する中で、
女子プロレスを「華麗」から「血まみれ」の時代へと変えたのが彼女たちだった。

「髪切りマッチ」を見ていた10歳の山田花子が後に入門し、お笑いへと移った。
相田翔子も応募する。

クラッシュギャルズの闘魂はアマレスへと繋がった。
私は2人の顔しか知らなかったが、驚くばかりでした。
脱帽です。


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アナザーストーリーズ 運命の分岐点 「女子プロレス 熱狂の頂点 クラッシュギャルズを求めた少女たち」


----以下、願望ご容赦 m(_ _)m



司会 松嶋菜々子

第一の視点 沢尻エリカ
第二の視点 警察
第三の視点 NHK




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プロジェクト X [映画]

(2012米)

アメリカの冴えない高校生4人が派手な誕生パーティーを開く。
バカ騒ぎする様子をPOVという撮影者の視線で撮影するドキュメンタリー風の手法を使っている。

企画した友人が宣伝しまくったため、50人の予定を大幅に超え、
酒やドラッグも入り、暴走し、収拾つかなくなる。

低予算のB級映画だったそうだが、アメリカで6500万ドルとなったそうだ。

退廃・不品行の愚かで下品であることと、制御できない集団の恐ろしさを
知ることはできました。











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徳川慶喜 第23回 和宮下向

(1998日)

万延元年(1860)12月、アメリカ公使館員の通訳ヒュースケンが殺された。
犯人は脱藩した元薩摩藩士の伊牟田尚平だったが、
幕府は水戸藩士に疑いの目を向けていた。


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(久世広周 内藤信親 安藤信正 本多忠民)

井伊直弼の死により、久世安藤政権となっていた。
和宮降嫁の条件として攘夷を7~10年で実現と約束していたが、
新たにプロイセンと条約を結んだので、降嫁の延期となる。
京都所司代の酒井忠義のネジを巻くこととなる。


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外国奉行の部屋では、ヒュースケンの労を思い、
水戸藩を潰せとなっていた。


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(島田左近 酒井忠義)

関白の九条尚忠に、孝明天皇に条約の件は伝えるなと言っていたのに
伝えたので話がややこしくなったと責めた。


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(孝明天皇 鷹司政通)

徳川斉昭が他界し、攘夷を頼れる者が幕府にいなくなったと嘆く。
謹慎は解けたものの隠居の一橋慶喜をもう一度押そうということとなる。


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中央の岩倉具視は老中の久世広周に、
攘夷の実現まで和宮は預けただけだと念を押す。


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(勧行院 和宮   )

上座には天璋院が座り、下座に座布団無しで座らされた。
ドラマにはなかったが、確か会う前に和宮が「天璋院へ」という手紙を出していたと記憶するが、
その礼だったのでしょう。


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徳川慶喜 第23回 和宮下向

天璋院も毅然としなければならなかった。





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おしん 176~178回 自立編

(1983日)

昭和2年(1927)夏頃の台風で、有明海の干拓地が駄目になり、
竜三は伊勢に来た。

おしんは神山ひさ宅でお世話になっていたが、
竜三と町で店を出すことにした。


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網元だったひさや色白の漁師も、引っ越しの朝、見送ってくれた。


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お客さんの法事での料理20人分を受けることもした。
竜三は刺身は無理なので魚を焼いた。


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顔を覚えてもらうため、おしんと共に歩いた。
又、御用聞きもした。

竜三の慣れない動きで売上は減り、ひさは心配したが、
おしんは竜三の気持ちを大事にすることが大事なのだと語る。



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NHKオンデマンド おしん 176~178回 自立編


落ち着き、おしんは佐賀に手紙を書いた。
清は破り捨てたが、大五郎は清をきつく叱った。

そして清は服や靴など竜三の物を伊勢に送った。
手紙には、竜三には「おめおめと佐賀に帰ってくるな」と書き、
おしんには、竜三を待っていてくれたことの感謝を記した。

第二子の死産を招くことにもなった清の仕打ちだったが、
ようやく溶け始める。




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英雄たちの選択 「大坂が燃える!大塩平八郎の乱~世直しの衝撃~」 [歴史動画]

(2019日)

19世紀中ごろ日本で、社会の矛盾や不条理と闘える思想といえば、
陽明学の一択だったのでしょう。当時は王学と呼んだそうだが、
ということは、幕末になれば、志ある者は皆、学んだのでしょう。

天保時代に乱を生きて成功させることはムリゲーでしょうから、
大塩ははじめから死を覚悟してはいた。
が、不正無尽の建議書の顛末は見届けたかったので、
逃げて生きようとしたのでしょう。

この乱で、少しでも世の中が良くなって欲しいとの願いだったのならば、
それは成功だったと言えると思いますね。

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英雄たちの選択 「大坂が燃える!大塩平八郎の乱~世直しの衝撃~」

----memo

1833 天保の大飢饉

城下5分の1を焼く

半日で鎮圧

大塩の檄文  天満の寺
 用意周到な2000字

江戸への廻米 幕府の指示

口利き横行 賄賂

キャリア 御譜代席 家柄
ノン   御抱席  与力同心 政策決定できない


ネットワーク 博徒 無宿 土俗宗教 学問

陽明学の良知

私塾の門人 洗心洞  農民も 

門真に門人の資  
  冠婚葬祭の報告 家族同然の付き合いを求めた
   助け合える

ものを言う農民

身分の壁の穴 茶と学問


   老中大久保忠真
乱の前 不正無尽の告発 幕閣 公家も 
建議書

平成で発見

2月19日 せきてんの日 儒教のお祭りの日を選んだ

与力の陽明学者だから乱を起こした

町を焼くことで

逃亡した

3月、囲まれ息子と爆死

農民 主張から行動へ 仁政が崩れているので この乱から変わった



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おしん 173~175回 自立編

(1983日)

大正12年(1923)9月1日の大震災で東京から佐賀の田倉家へ移り、
翌13年の晩秋、東京の露店で軌道に乗りかけるも、
14年(1925)に山形に実家に帰った。そして酒田の加賀屋のくにの臨終に立ち会い、
初夏に一膳飯屋を始め、加代と共に働いた。

が、翌大正15年(1926)まだ雪の残る中、伊勢で魚の行商を始めた。
網元の神山ひさ宅でお世話になる。浩太の母の妹だった。


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昭和2年(1927)となるが、近況の手紙を出したものの竜三から返事はなかった。
ひさは、おしんに「諦めろ」と説得するが、そういう訳にはいかなかった。
ようやく手紙が来たが、有明海の干拓があり、伊勢に来る気はないとのことだった。


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その年、台風が日本を襲った。
漁ができなかった朝、他の行商は休業だったが、
おしんは味噌漬けを販売した。


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が、佐賀では、田畑も有明海の干拓も諦めざるを得なかった。
母の清は夫と息子が無事だったことを喜んだが、
竜三は4年間を思い、涙した。


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翌朝、竜三の置手紙に母も泣いた。


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竜三は、満洲に向かおうとしたが、その前に伊勢に寄る。
おしんと雄の無事を確認して去るつもりだったが、目が合い、竜三は思わず逃げた。
が、負けてしまった。


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3年だった。


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NHKオンデマンド おしん 173~175回 自立編


おしんの説得に応じず、翌朝、満洲に向かうこととなるが、
朝の仕入れからおしんの仕事を見、自分で運び、
竜三は、満洲行きを撤回した。






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太平記 第9回 宿命の子

(1991日)

正中2年1月(1325) 足利高氏は19だった。
この年、後に執権となる北条守時の妹登子との結婚したが、
前回、お披露目の席で、長崎円喜暗殺未遂事件が起こった。
第14代執権北条高時が犯人だった。


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この暗殺団の中に花夜叉一座の石も加わっており、帰ろうとする高氏を殺しにかかった。
家族が足利家の連中に殺されたことと、妹となった藤夜叉との件だった。
登子にも知られることになった。


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その日、父が倒れ、貞氏は高氏に語った。
高氏の祖父にあたる家時が北条の責めにより自害したが、
それを貞氏が看取り、血の置文を受け取ったと言う。

「自分は才乏しく、家を維持するだけだったが、北条を倒せ、できないなら子どもにさせろ」
という内容だったと言う。

そして、この日をもって家督を譲ることとした。


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(高師直 高師重)

執事の高師重は、貞氏に仕えていたが、師重もこの日、師直に家督を譲った。
そして、血の置文を高氏に渡そうとしたが、
高氏は確認せず、見るべき時が来るまで預かっといてくれと師直に命じた。

高氏は、上総と三河の守護となり、鎌倉御家人の内最大の御家人となった。


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(覚海尼)

暗殺に失敗した高時は東慶寺に移った。
北条守時(赤橋)らが集まったが、母の覚海尼が仕切り、次の執権が長崎円喜派の北条貞顕(金沢)であっても、得宗家が仕切ると怒鳴った。



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(金沢貞顕)

第15代執権には、北条貞顕(金沢)となったが、
覚海尼と上手くいかず10日で辞めた。正中3年(1326年)3月のことだった。

「嘉暦の騒動」という内管領の長崎氏と安達氏の内紛をばっさりと省略している。


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(赤橋守時)

第16代執権となった守時だったが、長崎円喜の存在が煙たかった。


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TSUTAYA 太平記 完全版 


元弘元年(1331年)4月となり、後醍醐天皇の倒幕計画が側近の裏切りで幕府の知ることとなった。

対策会議が開かれたが、穏便に済ませたかった執権の守時に対し、
長崎らは強硬策だった。

守時が、諸将が長崎円喜宅に集まることを咎めたが、
円喜は、「ならば執権殿も来られよ」とのたまわった。


高氏と登子の結婚は元服後すぐで、家督は元弘元年(1331)9月の父の死なのでしょう。
ドラマでは京での藤夜叉との出会い、正中の変、翌年の結婚、家督相続を連続させ、
第14~第16代執権の交代劇と合わせることで、これが吉川英治の面白さなのだと感嘆いたしました。




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いだてん~東京オリムピック噺~ (42)「東京流れ者」

(2019日)

昭和39年(1964)の東京五輪に向けて、聖火リレー精査隊がアテネからシンガポールまで車2台で旅行気分で完走するつもりだったのでしょう。


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タクラマカン砂漠を通ることとなるが、ウィグル語で「死の世界」を意味したようだ。


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田畑から選手たちの宿泊施設を埼玉ではなく代々木にする交渉を頼まれた平沢和重は、アメリカ大使館に向かった。

後日、60億を提示された。


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5年後には返還されるものを60億出すことに池田首相も反対していたが、
田畑は直談判した。
昭和34年(1959)の皇太子成婚パレード需要により白黒テレビが前年100万台の普及だったのが、1週間前には200万台になったそうだ。

よって1964年の東京五輪でカラーテレビ1台60万が1万台売れれば60億なので、
60億で代々木を取り戻しNHK放送局を作って放送することにすれば、
経済効果を考えれば安い買い物だと池田を説得した。


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躍動的なポスター第2弾だった。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (42)「東京流れ者」


小松金治のオリンピックネタの落語を聞いて、
田畑は、小松が広告塔に適任と岩田幸彰を向かわせた。





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