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藤田達生 織田信長と足利義昭 [講義等]

(2018日)

藤田達生
三重大学教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授
[専門分野] 日本近世国家成立史の研究


(1)はじめに          新史料の発見で見直される「本能寺の変」
(2)画期としての天正八年    安土と鞆の二重政権がしのぎを削った7年間
(3)信長の西国御出馬その1    二つの史料に見る天正九年の鳥取城攻撃
(4)信長の西国御出馬その2    明智光秀の家系図から読み解く人間関係
(5)四国説           本能寺の変「四国説」の重要人物、三好康長とは?
(6)派閥抗争          実力主義の織田家中で巻き起こる派閥抗争の時代
(7)派閥解体          本能寺の変が六月二日未明だったのは偶然か?
(8)結び~中世と近世の相克~  本能寺の変直前の派閥の「三層構造」



近年の新史料で、本能寺の変は、光秀の義昭推戴説、(雑賀の土橋宛の光秀の手紙)
四国問題、(信親から利三宛)が注目されているようだ。

まず、前提の理解として、義昭が追放されて現広島の鞆の浦に移り、動いていたが、
実態を「鞆幕府」と捉えること、又、天正3年(1575)に信長はは右近衛大将となり、
翌天正4年に安土城を構え事実上の「安土幕府」となり、国内に2つの幕府が存在していた。

中国地方に対しては、秀吉は宇喜多と組み毛利と戦うことを考えていたが、
光秀は、逆だった。長宗我部と近く、外交で平和的に信長にも貢献することを考え、
また、毛利と和平で宇喜多を潰すことを考えていた。
秀吉は甥の秀長を阿波の三好長康(長慶の叔父)に養子にさせ、長宗我部を潰す方向となった。

光秀と秀吉の派閥のどちらかの生き残りの状態で、信長は秀吉-三好長康の方を取り、
自分の三男の信孝を養子とさせ、6月4日に四国攻めとなった。
それを防ぐべく、光秀は2日未明に変を行う。

信長を支える一門衆や近習も成長し、世代交代を迫られ、
天正10年で天下を掌握した信長の秀吉派に偏った人事構想が見えた光秀の謀反となった。

これは、もの凄く立体的で面白かったです。




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10mTV 織田信長と足利義昭






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