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小和田哲男 明智光秀の真実 [講義等]

(2019日)

小和田哲男
静岡大学名誉教授/文学博士 日本中世史、特に戦国時代史

※インタビュアー:川上達史(10MTVオピニオン編集長)

(1)謎につつまれた前半生
(2)織田信長との出会いと活躍
(3)織田軍団での光秀の存在とその役割
(4)「本能寺の変」の謎
(5)「本能寺の変」後の光秀とその真価


収録が昨年11月で大河『麒麟がくる』の予習用のようで、
一般向けで、殊更マニアックに走ることは避けているようだった。
復習と勉強になる。

享禄元(1528)年に生まれ55年の人生だそうだが、
『当代記』に従うと67となるが、信長や秀吉と離れるので考えにくいようだ。

・「金ヶ崎の退き口」で秀吉だけでなく、光秀、池田勝正も殿だったこと。
・比叡山焼き討ちに積極的に加担(どういう意図かは不明)。
・坂本城で土地付きで、家臣初だった。
・家臣の供養
・天正9年(1581)の6万人の軍事パレードで采配


「本能寺の変」の核は「織田信長非道阻止説」で、諸陰謀説は採らない。
複合的で、「四国問題説」「怨恨説」もあるが、3月に武田を滅ぼしたことでの信長の絶頂感を危険視したのでしょう。

信長一門に危険を感じたのは、
・自分を神だとしたこと
・「暦問題」
・正親町天皇から国司号を貰っていた臨済宗の住職を焼いた

信長は熱田神宮や伊勢神宮の遷宮に協力するなど、神社界を表面上保護するが、
本質的に自分を絶対者に置き危険だと光秀は観たということなのでしょう。

浅井久正・長政、朝倉義景の髑髏杯や、勝頼の首を蹴る所業は、事実とすれば、
穢れた物に触れたり、死者への仕打ちという点で神道で許容するものか疑問であり、
信長は、神道ですらない狂気に落ちたのやもしれません。

光秀は「主殺しの悪人」とされた。が、本当は、
信長という大悪人を殺した悲劇の英雄なのやもしれません。



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10mTV 小和田哲男 明智光秀の真実






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