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青天を衝(つ)け (40)「栄一、海を越えて」

(2021日)


明治42年(1909)、第2次桂内閣時代、伊藤は初代韓国統監を務め、
6月より枢密院議長を務める。
議長だった山縣有朋を枢密顧問官とし議長を伊藤にして上下関係を明らかにさせるという伊藤を信頼する明治天皇の御意思だった。


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栄一は渡米前の挨拶に大磯の伊藤邸を訪ねた。
伊藤は、ハルピンに行くと言う。


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民間人51名の渡米実業団が91日間の列車での民間外交を行う。
栄一は60の都市で70回の講演を行ったという。

タフト大統領とも会談。大統領は"平和の戦争"を行うと言う。
商売のことを言ってはいた。


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その後、栄一はサンフランシスコに向かう列車の中で伊藤の死を知った。
韓国独立運動家による暗殺ということだった。
が、実は弾丸は安重根の銃ではなく、また撃たれた角度も違っていた。
2階から別人がロシア製の銃を使って撃ったようだ。

伊藤は併合反対を公言できる大物だったが、これで併合が加速する。
山縣、桂、寺内といった実力者が併合派だが、桂や寺内が独断で伊藤殺害を指示するとは考えにくい。
伊藤の死により、残りの人生、元老としても己の影響力を発揮した。

西海岸での演説にて、排日運動や伊藤の死と、悲しみのあまり原稿を捨てる。
栄一は、日本人移民を憎まないでいただきたい。
奪うためではなく労働者としてきたと心の底から訴えかけ
「No war」と叫び喝采を得る。


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明治43年(1910)、栄一宅にて慶喜伝記編纂事業の聞き取りが行われたが、
1か月後、篤二が記事となる。スキャンダルだった。
歌子は駆けつけた。


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栄一は篤二の廃嫡を決定した。
が、篤二の土地や株券の名義を篤二の妻敦子に書き換えることとする。


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喜作は敬三に語る。人には向き不向きがあると。
自分が幕臣として戦い入獄しその後も後ろ指をさされたが、
篤二も後ろ指をさされることになると、父を心配する敬三に語る。
篤二はよく頑張ったが、ただ向いていなかったのだとした。
喜作は相場で失敗していた。


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翌、明治天皇が崩御し大正元年(1912)となる。
8月、喜作は74となり他界する。


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いつ死ぬべきか慶喜はよく考えた。
天璋院から切腹を勧められた時、江戸を離れた時、戊辰の戦が終わる時、
が、生きてよかったと語る。
大正2年(1913)、76にて死去。


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革命家孫文が資金の融通を求めてきた。
栄一は戦争のためでなく経済の発展のためなら協力すると答える。


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第2次大隈内閣で欧州大戦となる。
ドイツ領を頂くことにするが、加藤高明は領土的野心はないと口にするも
栄一は嘘だと面罵。追い出された。
対華21か条の要求と言われているものの内の第5項で、
中央政府の政治、財政、軍事顧問に日本人を入れることが批判を招く。
この件もあり元老西園寺は大隈を嫌い元老にしなかった。



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大正4年(1915)第1次大戦中、79にて井上馨死去。
井上は欧州大戦を「天祐」とした。
景気の面、戦後の国際連盟での常任理事国もあり、井上の見立ては間違ってはなかった。
彼は、富と成功を得、元老とまでなったが、権力を笠に他人の所有物を頂くという趣味があった。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け




紋付で栄一は敬三に、農科ではなく法科に進み銀行や家業を継いでくれと頼んだ。
敬三は悲しかった。命令ではないが、実業界を愛してくれと頼まれた。

後、昭和7年(1932)に篤二が死んだ時、敬三は父篤二の遺骸を引き取りに、
紋付で玉蝶を訪ねる。






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