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鎌倉殿の13人 (5)「兄との約束」

(2022日)


治承4年(1180) 8月17日夜、目代の山木兼隆と後見人堤信遠邸を襲撃。


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堤信遠を斬った。
義時の初陣であり、初の人殺しで震えていた。


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初戦に勝利し、頼朝は政(まつりごと)を行うと宣言。
具体的には土地の分配を差配することだった。
以仁王の令旨に、東国の荘園・公領は頼朝の沙汰に従うべしと書いてあったとした。
「見せて下さい」と言えるか以前に、疑問を抱く人も少なかったのでしょう。


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伊東祐親は殺しておくべきだったと悔い、
大庭景親は、討つことを即断する。


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祐親は善児に北条勢に潜り込んで孫の主犯宗時を討つよう命じた。
従弟の伊東祐清は反対するも父の命は絶対だった。


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伊東と大庭で挟み撃ちにする予定であることを八重は夫から知り、
頼朝に知らせにいくが、既に20日に北条館を発っていた。


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政子たちは、伊豆山権現に避難することにした。


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僧となるには少年の頃から修行が必要であり預けられた。
同時代人の親鸞聖人は7歳の少年であり、まだ仏教界で妻帯は認められていなかった。
後、夏目漱石は「大革命だ」と評価する。
(参考)親鸞聖人が世界で初めて僧侶の身で公然と結婚された理由(浄土真宗親鸞会)

明治5年に浄土真宗以外にも妻帯が認められ少年愛からの解放に至るが、
その親鸞聖人の功績を漱石も暗黙裡に認めていたのでしょう。


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三浦勢は大庭勢に味方のフリをして近づいていたが、
父三浦義澄は卑怯だと正直に告げた上で戦うことにした。


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が、雨の中、大庭はすぐに出立し頼朝と対した。
北条時政が挑発するも、大庭に乗せられ正面突撃することとなる。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



(北条宗時 工藤茂光)


甲斐源氏との合流の使者となった宗時だったが、
善児の手にかかる。






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