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翔ぶが如く 第1部第10回 斉彬出兵計画

(1990日)

安政5年(1858)3月に京都で橋本左内らと次期将軍に慶喜を推す内勅を得る活動をした後、薩摩に戻ったようだ。


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元豪商の森山新蔵宅での飲み会。
一部過激分子が「チェストー」と暴れ出す。

6月、藩主斉彬が兵を率いて上京するので、
禁裏守護の勅上を得るために京に行けと吉之助は命じられた。
騎兵用元込め銃3000丁の準備も命じられる。



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(左端ハリスの正面、岩瀬忠震)
6月19日、日米修好通商条約調印、ハリスの功績を讃えるように21発の礼砲。


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23日、一橋慶喜、井伊直弼を問責。
   徳川ではなくお前の独断でしたことだ、と怒りをぶつけた。
   井伊は慇懃無礼に相手にしなかった。


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24日、越前福井藩主松平慶永、登城前に井伊直弼を詰問した。
   堀田を解任した理由を聞くが、かわされた。


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(徳川斉昭、尾張藩主徳川慶恕、水戸藩主徳川慶篤)
同日、水戸藩前藩主の斉昭らが押懸登城する。ここに松平慶永も加わる。
慶恕は後に慶勝、慶永は春嶽と名乗る。
午前10時頃に登城し、待たされ、退城したのが午後2時頃だったようだ。

井伊直弼は、翌6月25日 次期将軍に紀州藩主徳川慶福(家茂)と公表する。



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7月7日、吉之助、大阪に到着。吉井幸輔から井伊の条約調印を聞いた。
    激怒し、吉井と京都に行くこととなった。



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吉之助と吉井は月照と会っていたが、そこへ伊地知が突然、江戸より来訪。
第13代将軍家定の死と、死を隠して押懸登城の処分を7月5日にしたことを知らせに来た。
6日に亡くなったとの公式発表だった。
慶喜の登城停止、徳川斉昭は謹慎、松平慶永は強制隠居だった。



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近衛に斉彬の禁裏守護のための上京を伝える吉之助。



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翔ぶが如く 第1部第10回 斉彬出兵計画


7月16日、第11代藩主島津斉彬の死去となる。
弟の久光の子又二郎(忠義)を跡継ぎにすると久光に残した。
斉彬は5人の男児を失っていたが待望の6男哲丸が昨年生まれた。
健康で育ってほしいという思いだけで、甥に譲ることにした。
が、願い空しく、半年後にはその哲丸も他界することとなった。
斉彬の3人の娘はまだ6歳前後で幼かったが、後に久光の子の忠義と珍彦の夫人となる。

この時点では斉彬の死を西郷は知らなかった。





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